祖父の足跡を訪ねて
母と祖母の満州からの引き揚げから40年以上が経過した、今から34年前の1988年、私はかねてから温めていた計画を実行に移した。それは、母と祖母、そして私の三代で旧満州の地を訪ねるというものだった。私はその頃、東京の出版社に勤務していた。そして、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画、満州の傀儡皇帝、溥儀の一生を描いた『ラストエンペラー』を見て、幼い頃から母に聞いていた満州のイメージを具体的に描けるようになっていた。
祖母のカヨは当時、70歳。祖母と母の念願だった、スイカの駅で別れた後に捕虜として亡くなった祖父の最期の地を訪れるならその時しかないように思えた。ただし、まだ天安門事件前の中国では自由旅行は許されていなかった。中国政府が派遣する専門ガイドの同行が必須だったため、費用もかなり高かったと記憶しているが、それでも自由化を待っていたら祖母のタイミングを逃すことになるかもしれない。彼女に気力、体力が残っている間に決行するしかない。
私は中国政府の旅行代理店に、北京、ハルビン、牡丹江を1週間で巡るツアーの旅程作成を依頼し、88年のゴールデンウィークの連休に、大分から上京した母と祖母と共に中国へと旅立った。牡丹江は祖父が亡くなったソ連軍収容所があった街だ。ハルビンは牡丹江に行くための経由地だった。
母の故郷スイカへ
北京空港では、20代に見える若い女性がセダン車と共に迎えてくれた。彼女が北京での専門の通訳ガイドだった。名前をもう思い出せないそのガイドに、祖母はお土産のアクセサリーやストッキングを手渡し、「お世話になります」と言った。すると、翌日、ホテルで私たちを出迎えた車が普通のセダンから黒塗りの高級車になっていたことに私は驚いた。数十年前に暮らした満州の地で経験した処世術を、祖母は忘れていなかったのだと思い知らされた気がした。そして、私たちは故宮や天壇公園といった観光名所を巡った後、次の街、ハルビンへと飛んだ。
ハルビンのガイドは思い出深い。40代くらいの男性で非常に親切だった。街を見て回った後、ホテルの部屋で少し話しましょうと私たちの誘いに応じた彼が、私が持参した日本の雑誌に目を留めると「ちょっと読んでもいいですか」と聞いた。おそらく外国語の雑誌は当時入手が困難だったのだろう。しかも、その雑誌の表紙は偶然にも中国の当時のトップ、胡錦濤の写真だった。私が「どうぞ、もう読んだので持って帰ってください」と言うと、彼は大切そうに、そしてその雑誌を持っていることが分からないようにコートの内側に抱えるようにして持ち帰ったことが印象的だった。
翌日はハルビンから少し足を伸ばす予定をガイドが組んでくれていたが、母が突然「私たち家族が最後に住んだスイカという街を訪ねたい」と言い出した。前の晩に、私たちがなぜ中国を旅しているのかを聞いていたガイドは「十分、日帰りできる距離です。分かりました。行きましょう」と急遽、予定を変更してくれた。今、思えば、外国人旅行者の予定変更は上司に報告が必要だった可能性が高いのに、彼は私たちの要望を誰にも相談せずに聞き入れた。
こうして私たちは、車で母の一家が終戦まで暮らしたスイカを目指した。片道4時間ほどかかったと記憶している。しかも、車窓からは、地平線まで続く畑と並木という単調な景色が広がるだけ。そうやって到着したスイカは、私には何もない田舎町に見えた。道路はほとんど舗装されていず、足元はぬかるんでいた。母が話してくれたモダンな街並みは一体どこに消えたのだろう?印象に残っているのは、素朴な子どもの笑顔だけだ。母たちが暮らした家を探し当てることもできなかったが、それでも、母と祖母はガイドに何度も礼を言った。母にとっての故郷を見せてあげたいと予定を変更してくれた彼の気持ちがうれしかったからに違いない。
祖母の祈り
ハルビンを後にした私たちは、祖父の進が最期を迎えた牡丹江に向かった。牡丹江の空港でもまた別の男性ガイドが私たちを迎えた。祖父のことを説明すると、彼は別の男性を呼び寄せ、彼と共にソ連軍収容所跡だという場所に案内してくれた。もちろん、祖父がどこに埋葬されているのかは分からない。祖母はその場所に立つ松の木を墓に見立て、日本酒と梅干しをお供えした。実に40年以上ぶりの供養だった。
祖母は、戦後、母とその弟と妹を満州から日本に連れ帰り、亡き夫の実家で慣れない農業に従事しながら義父(私にとっての曽祖父)を看取った。再婚はしなかった。もしかしたら、祖父が亡くなった場所でその数十年にわたる労苦を仏に報告していたのかもしれない。しかし、前向きな思考だった祖母は、ただひたすらに祖父の冥福だけを祈っていたのではないかとも想像する。2008年にすでに他界した祖母に、そのことを確認する術はもうない。
母と祖母と一緒に祖父の足跡を訪ねた4年後、私は東京の出版社を辞めて単身ロサンゼルスに移住した。海を渡ることで自分に新しい未来が開けると信じての渡米だった。その70年近く前、祖父の河野進が満州に新天地を求めた時も私と同じ気持ちだっただろうか。