アイデンティティは内から作られる
——あなたのファミリーのルーツを詳しく教えていただけますか。あなたは、自分自身のアイデンティティをどのようにとらえていますか。アイデンティティに関して問題を感じたことはありますか。また、よかったと思うことはありますか。
CP: 私の両親は日本で初めて出会いました。母は千葉県船橋市の出身で、父はオーストラリアのバサーストという田舎町の出身です。大学では経済学と日本語を学び、1960年代に交換留学生として日本に滞在しました。父は、私の母の家に1,2ヵ月滞在していました。というのも母の姉が英語を勉強していて、練習相手として英語を話す留学生を求めていたからです。
当時は、母と父はまだ19歳で、特別な関係にはなかったようでしたが、その後二人は文通したりして連絡を取り合っていました。母は旅行代理店で働き、しばらくの間ロンドンとオーストラリアに住んでいました。しかしオーストラリアにいる間は、父は日本にいて、東京の商社で働いていました。それから何年かして、二人はとうとう再び同じ街、東京に住むことになったのです。最初に出会ってから10年後、二人は結婚し、姉は東京で生まれ、私は父の仕事の都合で家族一緒に引っ越した韓国で生まれました。
オーストラリアで育つなかで私も、自分のアイデンティティについて葛藤を抱えていました。特に小学生の頃はそうでした。たいていの子供は、みんなと同じようになりたいと思うものでしょう? 母は肉のマリネなどの入ったおいしいお弁当を作ってくれたものでしたが、私と姉はやっぱりみんなと同じようにピーナッツバターか“ベジマイト”のサンドイッチが食べたいと母に言いました。(今、8歳の娘が通う学校では、お寿司は子どもたちが食堂で食べられるお弁当の中で最も人気のあるもののひとつなのだから、おもしろいでしょ?)。
時々、他の子供たちが私の母について少し意地悪なことを言いました。人種差別とまではいかないけれど、母が(ほかの母親と)違うからだとはわかっていました。姉と私は学校で友達に自慢げに、「私たちは日本語を話さないから」と言ったことを覚えています。でも、これは1980年代の話です。また、当時は他の日本人やミックス・レイスの家族をあまり知りませんでした。
全体的に見て、私はミックス・レイスであることをとても幸運に思っています。たいていの経験は有意義なものでした。韓国や中国からの移民が多い地域の公立高校に通っていたので、たとえ学校でたったひとりの日系オーストラリア人の女子だったとしても(そうだったと思うけれど)、アジア系であることに違和感はありませんでした。
それでも、高校生活を通して違和感があったことを覚えています。高校を卒業したのち、交換留学生として日本で暮らすことにしました。日本で暮らすことで、自分のアイデンティティの欠けているもうひとつの部分を見つけ、最終的に自分を“見つける”ことができると思ったからです。
しかし、日本に移って間もなく、私は自分の欠落した部分を見つけることができないと気づきました。むしろ、日本で暮らすことでオーストラリア人であることをより強く認識するようになったのです。自分の欠落した部分は見つかりませんでしたが、アイデンティティは自分の内側から生まれるものだと気づきました。自分自身をどのように見るかによって、自分のアイデンティティを形作ることができました。基本的に、アイデンティティというものは、他人からどう見られるかによって常にコントロールされる必要はないと気づきました(もちろん、そういう部分もあるが)。
今、私は日本人とオーストラリア人の両方の側面を持っています。日本人の血を引いていることを誇りに思っていますが、日本の習慣や風習のなかで育ったわけではありませんから、自分がたいていの日本人とどれだけ違うかは分かっています。(*私の自己アイデンティティの探求については、こちら(英語のみ)をご覧ください)。
——あなたは日本で日本語の勉強をしたり、研究をしていたようですが、具体的にどのような経験や勉強をしたのか教えてください。
CP: 私は31歳のとき、シドニー工科大学でクリエイティブ・アーツ博士課程の2年目のときですが、大学院の研究者のための6ヵ月の滞在型語学コース(国際交流基金文化学術専門家派遣事業)に参加しました。国際交流基金関西国際センターで学び、6ヵ月間大阪に住んでいました。
中国、韓国、ノルウェー、イギリス、アゼルバイジャンなど世界各国からの留学生と一緒に暮らしました。毎日、午前中は2、3時間日本語の授業を受け、午後は他の授業に集中したり、大学院での学位取得のための研究をしたりしました。先生方の助けを借りて、オーストラリアにいた日本人抑留者の日記の一部を英訳しましたが、それは私の研究に大いに役立ちました。
また、日本人抑留に関する他の研究者にも会い、ブルームの真珠貝採取ダイバーの多くの出身地である和歌山を訪れました。こうして、最終的に『After Darkness(暗闇の後で)』を日本語に翻訳してくれた北條正司氏に出会いました。彼の父親がブルームで真珠貝採りをしていたので、彼に会って父親の体験を聞き、資料をもらいました。
——日本についてなにか興味を持っている点はありますか。また、日本に関わることをテーマにした小説やノンフィクションを今後発表することを考えていますか。
CP: たいていの小説家は、何度も繰り返すような同じテーマを持っていると思います。私はまだ1作しか書いていませんが、いま2作目に打ち込んでいます。私が立ち返るテーマというのは、移民の経験、自己のアイデンティティ、そしてオーストラリアの風景です。間違いなく、オーストラリアで育ったミックス・レイスの日本人としての経験が、私と私の創作表現に大きな影響を与えてきました。
3冊目の本では、日本での生活と家族の歴史についての回想録を書く予定です。
『暗闇の後で』は、日本社会、少なくとも日本政府に対する批判的な作品と受け取られかねないことは分かっています。私は日本文化と日本人が大好きですが、日本社会は非常に管理的で、義務に縛られた社会です。私のオーストラリア人としての側面は、そのことに苦労します。日本に住んでいると、社会のルールや期待に従うことに息苦しさを感じます。でも、私の書くものが日本の社会や文化のポジティブな面にも光を当てることを願っています。
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《記念講演》暗闇の後で:抑留された日本人民間人についての小説
戦時中のオーストラリアと日本の隠された物語
2024年5月6日(月)15:00 (東京) | 16:00(シドニー) | 22:00(ロサンゼルス)
ハイブリッド(対面&バーチャル):
東京外語大学海外事情研究所 | Zoom
クリスティン・パイパーさんが、著書『暗闇の後で』について翻訳者の北條正司と語り合います。
パイパーは、オーストラリアの強制収容所と真珠貝ダイバー、そして日本陸軍の 731 部隊に関する調査を通じて得られた洞察を共有します。北條は、翻訳プロセスと彼の父親のブルームでの真珠貝ダイバーとしての経験と 1940 年代の強制収容について話します。
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