https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1018/
第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
(英語)多くの人たちが理解していないのは、私達が話し合いで、特に将校の間で、私達が戦闘部隊としてのタスクをどれだけ真剣にとらえたかということです。私達が史上初めてのアジア系(アメリカ人)の戦闘部隊であることは分かっていました。また、繰り返しませんが(アメリカで差別があることも)わかっていました。私達はアメリカでの不平等な生活については果てしなく話をしました。例えばここロサンゼルスでも、どんなに高学歴であろうと、どんなにきちんとした身なりであろうと、あの頃は銀行の窓口にさえなれませんでした。まあ、女性であれば電話のオペレーターぐらいにはなれましたが、それも部屋の後ろにある見えない場所で働き、表に出るということはありませんでした。どの大企業も公共の場に出るような仕事に(アジア系を)採用することはありませんでした。
ですから、きちんとした服装でネクタイを締めなくてはいけない仕事以外のもの、あの頃は大型スーパーマーケットなんてありませんでしたから、屋台や肉屋の裏で中国人用の(肉を用意する)仕事をしかありませんでした。この様に普通の人には(仕事が)何もなかったのです。ハワイだと銀行の窓口の仕事にはつけましたが、それでも白人より多く働かなくてはならず、しかも給料は少ない、というように賃金格差がありました。このことは表立ってありました。給料の基準が2つあったのです。
日付: 1995年8月28日
場所: 米国、カリフォルニア州
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ヨンオク・キム大佐(米国陸軍退役軍人)は、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊の一員として第二次大戦を戦い、叙勲された退役軍人であり、コミュニティリーダーとして多くの人々に尊敬されています。キム大佐は、1919年カリフォルニア州ロサンゼルスの朝鮮系移民の家庭に生まれました。 戦争の勃発と共に、彼は日系二世のみで構成された第100歩兵大隊の一員となりましたが、軍は、キム大佐と日系人の間に摩擦が生じることを懸念し、別部隊への異動を提案しました。しかし、彼は日系も朝鮮系も同じアメリカ人である、と主張し、その提案を拒否しました。生まれながらのリーダーとしての才覚と戦場での鋭い直感力、キム大佐の戦場での偉業は伝説的でさえあります。 キム大佐は、朝鮮戦争で再び戦地へ戻り、マイノリティとしては初めて大隊長に任命されました。1972年に退役した大佐は、殊勲十字章、銀星章、2度の青銅星章、3度のパープルハート章、フランス政府からの戦功章を含む19の勲章を授与されました。 後年、キム大佐は、ゴーフォーブローク教育基金、全米日系人博物館、韓人健康情報センター、韓国系アメリカ人連合など、数多くの団体の立ち上げを支援し、アジア系コミュニティに貢献してきました。キム大佐は、2005年12月29日癌のため、86歳で亡くなりました。(2008年8月8日)
両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)
アメリカへ帰国後の帰米の扱い(英語)
カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)
市民権を取り戻す(英語)
ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)
忠誠心の質問への返答(英語)
収容所を出た後、シカゴでアパートを見つけることの難しさ(英語)
真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
収容所への442連隊の兵士の訪問(英語)
第2次大戦中の陸軍語学学校での教鞭(英語)
第2次大戦後の人々の変化(英語)
9/11後のアメリカの雰囲気について(英語)
ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)
渡米後の祖母の差別体験(英語)
日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)
陸軍での人種差別経験(英語)
カンザスの農夫との会話(英語)
人種的ステレオタイプを描いた作品の与える影響(英語)
公共プールでの差別経験(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)