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第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
(英語)私達はアジア系である事が不利なことを十二分承知していました。私達の間には、心理的に、体力的に、精神的に劣っていると感じていた者は誰もいませんでした。ただシステムが私達を断固として受け入れないのだと感じていました。更に私達は、戦闘兵士について何かオーラのようなものがあると感じていました。それは、部族の生活が戦士の成功・失敗に左右される時代に遡るのだと思います。
ですから、日本人—彼らはハワイの言葉を話し、ハワイの出身ですからハワイの日系アメリカ人と言っていましたが—の成功や失敗が・・・とにかく良い働きをしなくてはならないと。成功しなくてはならないと。失敗は許されませんでした。彼らの願い、大望は他のアメリカ人部隊と同じ位良い部隊になることでした。もちろん私達は皆、他のアメリカ人部隊よりも優秀になりたいと願っていました。しかしきちんと認識しなくてはいけないのは、戦闘に出ると、失敗したくなくても失敗するという事実です。誰も臆病になるために戦場に行くとは思いませんが、ある者は臆病なんです。それはどうすることもできません。
ですから、話し合いの中で最高(の部隊)になるとは誰も言いませんでした。それではただの、何と言いますか、口先だけのことになってしまいますから。でも皆白人部隊と同じ位優秀にならなければいけないことは分っていました。全員が規則に従い、ベストを尽くさなくてはなりませんでした。そのことだけは分っていました。それには血を流さなくてならない、それが払わなくてはいけない犠牲でした。そして私達全員、その心の準備をしなくてはなりませんでした。
日付: 1995年8月28日
場所: 米国、カリフォルニア州
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ヨンオク・キム大佐(米国陸軍退役軍人)は、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊の一員として第二次大戦を戦い、叙勲された退役軍人であり、コミュニティリーダーとして多くの人々に尊敬されています。キム大佐は、1919年カリフォルニア州ロサンゼルスの朝鮮系移民の家庭に生まれました。 戦争の勃発と共に、彼は日系二世のみで構成された第100歩兵大隊の一員となりましたが、軍は、キム大佐と日系人の間に摩擦が生じることを懸念し、別部隊への異動を提案しました。しかし、彼は日系も朝鮮系も同じアメリカ人である、と主張し、その提案を拒否しました。生まれながらのリーダーとしての才覚と戦場での鋭い直感力、キム大佐の戦場での偉業は伝説的でさえあります。 キム大佐は、朝鮮戦争で再び戦地へ戻り、マイノリティとしては初めて大隊長に任命されました。1972年に退役した大佐は、殊勲十字章、銀星章、2度の青銅星章、3度のパープルハート章、フランス政府からの戦功章を含む19の勲章を授与されました。 後年、キム大佐は、ゴーフォーブローク教育基金、全米日系人博物館、韓人健康情報センター、韓国系アメリカ人連合など、数多くの団体の立ち上げを支援し、アジア系コミュニティに貢献してきました。キム大佐は、2005年12月29日癌のため、86歳で亡くなりました。(2008年8月8日)
サウスダコタへの学生の転住について(英語)
CWRICに関わった唯一の日系判事
予備軍からの徴集(英語)
日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)
フォート・スネリング(英語)
中国系学生との関わり(英語)
政治活動家 (1917 - 2004)
兵役志願(英語)
アルゼンチンでの差別(スペイン語)
『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)
マニラから東京へ(英語)
戦時中、日本帝国軍に従軍(スペイン語)
二世日系アルゼンチン人 (1929年生)
戦中に救済会に送られた救援金
ブラジル日系移民の母 (1900-1996)
戦時中の救済会の役割
公平委員会 (英語)
徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)
立場を明らかにすることへの願望 (英語)
収容所新聞からの排斥 (英語)
1941年12月7日(英語)
第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)
徴兵忌避の公判(英語)