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第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
(英語)はい、私達はよく困難な任務の際に投入されたと思います。でも上の人たちが私達を使い果たすためではなく、私達なら任務を完了できると分かっていたからなのです。事実(イタリア)アンツィオ(の戦い)では私達の部隊から余り多くの死傷者は出ませんでした。ライダー大将は、2つの連隊が主要な道を制覇するのに失敗した時、私達を投入しました。その2つの連隊はラヌビオとアルバーノ・ヒルズ(Albano Hills)を通過する道の制覇に失敗したのです。本来なら第1機甲師団がその道を通りローマまで突破する予定でした。
またその制覇に失敗した際、連隊長の1人が捕まってしまいました。午後にライダー少将が第100歩兵大隊のところにやって来て・・・私達は少将の直下にある独立した部隊でしたから・・・翌朝私達がその道を制覇するよう言いました。私は非常に物をはっきり言う中尉でしたから、他の人が話もできず静まりかえる中、大将に単刀直入に聞きました。「6つの大隊が制覇に失敗した道を、1つの大隊である我々にどう制覇しろとおっしゃるのですか?」すると大将はとてもに静かに私を見て「なぜなら、第100大隊なら出来ると私には分かっているからです。」と言いました。そこで私は「だったら第133(連隊)を送ったらどうですか?(この連隊には)3つの大隊があります。」と言いました。すると少将は「彼らがその道を制覇できるかには疑問を感じます。でもあなた達ならできる。」と言いました。実際私達は(その任務を)成し遂げました。
日付: 1995年8月28日
場所: 米国、カリフォルニア州
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ヨンオク・キム大佐(米国陸軍退役軍人)は、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊の一員として第二次大戦を戦い、叙勲された退役軍人であり、コミュニティリーダーとして多くの人々に尊敬されています。キム大佐は、1919年カリフォルニア州ロサンゼルスの朝鮮系移民の家庭に生まれました。 戦争の勃発と共に、彼は日系二世のみで構成された第100歩兵大隊の一員となりましたが、軍は、キム大佐と日系人の間に摩擦が生じることを懸念し、別部隊への異動を提案しました。しかし、彼は日系も朝鮮系も同じアメリカ人である、と主張し、その提案を拒否しました。生まれながらのリーダーとしての才覚と戦場での鋭い直感力、キム大佐の戦場での偉業は伝説的でさえあります。 キム大佐は、朝鮮戦争で再び戦地へ戻り、マイノリティとしては初めて大隊長に任命されました。1972年に退役した大佐は、殊勲十字章、銀星章、2度の青銅星章、3度のパープルハート章、フランス政府からの戦功章を含む19の勲章を授与されました。 後年、キム大佐は、ゴーフォーブローク教育基金、全米日系人博物館、韓人健康情報センター、韓国系アメリカ人連合など、数多くの団体の立ち上げを支援し、アジア系コミュニティに貢献してきました。キム大佐は、2005年12月29日癌のため、86歳で亡くなりました。(2008年8月8日)
徴兵拒否の決意(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)
アズマノトラベル創設者
JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
1942年10月の妹の死(英語)
カナダ人ゆえに解雇(英語)
1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)
戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)
真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)
戦後日本行きを志願(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
当時の収容所に対する認識(英語)
アメリカ占領下の日本(英語)
徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)
徴兵拒否により服役した刑務所での生活環境 (英語)
戦時中の徴兵拒否について子供たちへ伝えること (英語)
「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)