https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1026/
第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
(英語)もし第442連隊がなければ補償はなかったという意味で、私達は成功しました。誰が何と言おうと、補償は司法の問題ではありません。最高裁がこの問題の判決を覆す理由はなかったでしょうから。もしかしたら再び(裁判に)持ち込むべきだったのかもれませんが、そういうことは起きていませんでしたし、法律書にもありませんし、司法制度はそういう仕組みにはなっていません。司法制度によると、再び裁判に持ち込むには似たようなケースをあげなくてはなりません。でも似たケースなどありませんから。ですからこれは政治的な問題になります。
もし議会を通過させる政治問題なのであれば、どの位血を流したかというようなことはカウントに入ります。もし第100歩兵部大隊や第442連隊の成果がなければ、議会が補償を通過させると思いますか?それはありません。単なる理論や司法的根拠では絶対に勝ちえないのです。強硬派は(反対を)固守するところですが、血を流したことに対し戦えません。もう少し細かく言うと、強硬派は「あなた達はヨーロッパには喜んで行き戦い血を流したかもしれないが、日本人とは戦っていない」と言います。しかし米軍事情報部(Military Intelligence Service. =MIS)のことを彼らに言えば、彼らも屈服せざるを得ません。ですから、第2次世界大戦の退役軍人の貢献は大きかったと言えます。でも問題を解決したとはいえません。
日付: 1995年8月28日
場所: 米国、カリフォルニア州
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ヨンオク・キム大佐(米国陸軍退役軍人)は、第442連隊戦闘団第100歩兵大隊の一員として第二次大戦を戦い、叙勲された退役軍人であり、コミュニティリーダーとして多くの人々に尊敬されています。キム大佐は、1919年カリフォルニア州ロサンゼルスの朝鮮系移民の家庭に生まれました。 戦争の勃発と共に、彼は日系二世のみで構成された第100歩兵大隊の一員となりましたが、軍は、キム大佐と日系人の間に摩擦が生じることを懸念し、別部隊への異動を提案しました。しかし、彼は日系も朝鮮系も同じアメリカ人である、と主張し、その提案を拒否しました。生まれながらのリーダーとしての才覚と戦場での鋭い直感力、キム大佐の戦場での偉業は伝説的でさえあります。 キム大佐は、朝鮮戦争で再び戦地へ戻り、マイノリティとしては初めて大隊長に任命されました。1972年に退役した大佐は、殊勲十字章、銀星章、2度の青銅星章、3度のパープルハート章、フランス政府からの戦功章を含む19の勲章を授与されました。 後年、キム大佐は、ゴーフォーブローク教育基金、全米日系人博物館、韓人健康情報センター、韓国系アメリカ人連合など、数多くの団体の立ち上げを支援し、アジア系コミュニティに貢献してきました。キム大佐は、2005年12月29日癌のため、86歳で亡くなりました。(2008年8月8日)
真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)
アズマノトラベル創設者
JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
1942年10月の妹の死(英語)
戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)
真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)
Asian Americans for Actionへ参加してよかったこと(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)
時期を見計らって始めた補償運動(英語)
人種ゆえにより説得力を持った証言(英語)
元米国陸軍対敵諜報部将校(1922-2005)
集団訴訟によってまとまった日系コミュニティ(英語)
当時の収容所に対する認識(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)
徴兵拒否により服役した刑務所での生活環境 (英語)
戦時中の徴兵拒否について子供たちへ伝えること (英語)