https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1357/
(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
(英語)私はアニメの作り方を学びませんでした。アニメーターの仕事を見ていたのです。そして、アニメの作り方を学びたいと言いました。私はシートのことならなんでも知っていました。それは複雑なものなんです。絵を描いたり、カメラの高さを全て記入したり。でも、「私にもできます」と言ったのです。すると、ディズニーにいたスタッフたちは笑い「少なくともアシスタントを15年はやらないと」と言うのです。それでも「できます」と答えました。ただ血なまぐさいものなどを描いて、ただ動かせば良いだけなんです。でも「いや、君にはできない」と言われました。
そこで私は、ディスクを借りて、紙や他のもの一式家に持って帰りました。それで初めてアニメ映画を作ったのです。私の最初の短編映画です。絵コンテを描き、「バナー・オブ・テルアキ」と題しました。矢と要塞をめぐる侍ストーリーです。ひとりでマジックマーカーで絵を描き、それを積み重ねていき、シートも使って、全部やったわけです。それを箱に入れ、UPAに持っていき、カメラで撮影してくれと頼みました。彼は笑って、「ジミー、何を言ってるんだい?僕にはできないよ。仕事ではないし、たったひとつしかないカメラは24時間、ふたりのカメラマンが交代で使っているんだ。だからできないよ」と言いました。それで私は書いたものを持って帰り、焼きました。何か月もかかりました。
それからすぐ、私がこういった面白い短編映画を作ったという話が広まりました。彼らはそれをコロンビア・ピクチャーズの短編映画、二つの短編映画と呼ばれるものに入れたかったのです。私はUPAのオーナーであったスティーブ・アズスに呼ばれました。彼は、「ジム、僕らは君のストーリーとアニメに500ドル払おう。興味がある」と言うのです。「ええと、できません。もうないのです。全て焼いてしまいましたから」と私が言うと、彼は、「なんだって?ありえない」。「写真を取ってもらえなかったのです」。すると、「僕のところに来ればよかったのに」と言うのです。なので私は、「ボスのところへ行って、撮影してくれなんて言えません」と答えました。
日付: 2012年6月29日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ジミー・ムラカミ氏は子供のとき、ディズニーのアニメを見たのがきっかけで映画アニメーターになった。それは第二次世界大戦中にトゥーリーレイクの強制収容所に入れられている日系アメリカ人を対象に見せられたものだった。ロサンゼルスのシュイナード芸術学校に在籍した後、UPAのアニメーターとして働いた。のちに1960、70年代に多数の有名なコマーシャルを生み出したムラカミ・ウルフ社を設立し、「風が吹くとき」や「スノーマン」の長編映画ディレクターとなる。近年アイルランドに住居を構えた後、2014年の2月に80歳で亡くなる。(2014年6月)
アニメーションとの最初の出会い(英語)
第二次世界大戦中トパーズに強制収容された日系三世。受賞歴のあるディズニーアニメーター(1934年生)
ウォルト・ディズニーとの初めての遭遇(英語)
ディズニーのデッサンテスト(英語)
イワオ・タカモト師(英語)