https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1358/
(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター
(英語)二人のアメリカ人がいました。兵士だと思います。一般市民のような服装をしていましたが、兵士だと思います。私がバーに座っていると、女性のバーテンダーが、「Jerryさんを知ってる?彼がすごく好きなの。彼が私のことを見つめてくるから緊張する。でも本当に好きなの」と言うのです。なので私は、「それならあちらへ行って彼に言えばいい」と言いました。私は彼女に英語を教えていましたから。彼女は、「ええ、でも恥ずかしくて。お願いだから、彼に伝えてくれない?」と。それで私は彼に近づきました。
あれほど長い文句を並べたのは初めてでしたよ。まず「すみません」と言い、それからちょっと間を開けて、「私はアメリカ人なんですが」と言いました。すると彼は、「ああ、どうしたんだい、兄弟?」。「私はアメリカ人。あなたもアメリカ人。ちょっとお話がありまして」「ああ、なんだい?」「あそこにいる女性、わかります?」サチコだか、サユコだかという名前だったと思います。なんであれ、私は「彼女はあなたのことが好きなんです」と伝えました。彼は、「本当かい?なんてことだ、彼女を素晴らしいと思っている奴はたくさんいるんだよ。私もすごく好きなんだ」と答えました。彼らは二人して、恥ずかしがり屋で、お互い話しかけることができなかったのです。それで私が話しかけたことをきっかけに彼らはくっついたわけです。
それでサユコがやって来て、おしゃべりを始めました。私は通訳など色々お手伝いをしながら、そこに座っていました。そうやって彼らと友達になったのです。私の英語も再び戻ってきました。しかし、それから私が戻って授業をすると、彼女はいなくなってしまいました。二度と戻ってきませんでした。バーに行ってもいないので、私は新しく雇われた女性に尋ねました。すると彼女は、「彼女はアメリカに行ったんだと思う」と答えました。
日付: 2012年6月29日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ジミー・ムラカミ氏は子供のとき、ディズニーのアニメを見たのがきっかけで映画アニメーターになった。それは第二次世界大戦中にトゥーリーレイクの強制収容所に入れられている日系アメリカ人を対象に見せられたものだった。ロサンゼルスのシュイナード芸術学校に在籍した後、UPAのアニメーターとして働いた。のちに1960、70年代に多数の有名なコマーシャルを生み出したムラカミ・ウルフ社を設立し、「風が吹くとき」や「スノーマン」の長編映画ディレクターとなる。近年アイルランドに住居を構えた後、2014年の2月に80歳で亡くなる。(2014年6月)
移住当初、言葉で苦労
沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)
スペイン語の学習(スペイン語)
『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)
日本語学校(英語)
政治活動家 (1917 - 2004)
日本陸軍に入隊させられる (英語)
日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)
無我夢中で頑張った戦後
日本語とスペイン語両方を使って生活
天野博物館館長 (1929年生)
両家族への適応(英語)
ユダヤ系日系アメリカ人ジャーナリスト
子どもの教育
帰米二世(1929年生)
ニッケイという言葉について
(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。
三か国語を使った沖縄での活動(英語)
ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人
隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)
日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事
日本語を教えるよう圧力を受けた祖父(英語)
戦時中に厳しく規制された外国語教育
サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)