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クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)
しかし、このラレドへの旅は、母や姉妹が経験したことを最も身近に感じられた旅でした。通訳がいて、スペイン語で彼女たちの声を聞いていました。彼女たちは「なんてことだ、彼女たちの話は私たちの話とは比べものにならない」と言っていました。彼女たちは6か月から1年拘束され、私たちは3年半そこにいましたが、彼女たちは比較にならないと思っています。
しかし、彼女たちがスペイン語で自分たちの話をしてくれたので、特に姉のキヨが目に留まりました。姉は今二番目で、収容所を出てすぐに結婚したので、ロサンゼルスに行きました。姉が一種の責任者で、いろいろやってくれました。姉はスペイン語と日本語しか話せなかったので、英語はスペイン語訛りが強かったです。それで私たちはいつも楽しく過ごしました。しかし、女性たちが話しているのを聞いて、グアテマラ出身の女性が4人の子供について話していました。一番上の子が18歳で、娘も18歳で、連れ去られました。これは今起こっていることで、彼女はその理由がわからず、後で「まあ、彼女は18歳だから自分で何とかできる」と言われました。そんなことをする法律はありません。彼らはいつも法律を破っています。私たちに対してやったことと何ら変わりません。彼女たちが自分たちの話をしているとき、彼女たちは泣き崩れ、通訳も泣いていました。その瞬間、私は両親と姉が経験したことを少しだけ感じました。
私は本当に悩みました。その時、私は「ああ、スペイン語を話したり聞いたりすると、姉や母が経験したことをすぐに感じることができる、なぜなら彼女たちが話していたのはスペイン語か日本語だけだったから」と言いました。
日付: 2019年9月20日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: トム・イケダ、西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
カズム・フリオ・セサール・ナガヌマ(永沼)は1942年7月28日、ペルーのリマで一世の両親のもとに生まれた。第二次世界大戦前、両親は洗濯業を営んでおり、父はコミュニティの中でもリーダー的存在であった。戦争が始まると、FBIは父親を逮捕し、家族全員がテキサス州クリスタル・シティにある司法省の収容所へ送られた。戦争が終わっても、一家はペルーに戻ることが許されなかったため、一家は収容所へしばらくとどまっていたが、ニュージャージー州のシーブロックバームのスポンサーを受け、収容所を離れ、その後、サンフランシスコの神道教会の教師の援助受け、サンフランシスコに移り住み、一家はそこで仕事と住居を見つけることができた。カズムはデザイン会社を設立し、成功を収めた。(2022年9月)
憲法に守られることを信じていた父(英語)
三世のビジネスマン(1935年生)
日本人がペルーへ移住した理由 (英語)
ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人
三か国語を使った沖縄での活動(英語)
家族のアマチでの強制収容について会話が不十分だった(英語)
日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事
第二次世界大戦中、所持品を保管してくれていた一家 (英語)
アーティスト(1926年生)
「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)
帰米二世、詩人、活動家(1923年生)
日本語を教えるよう圧力を受けた祖父(英語)
祖父がFBIに連行された後隣人の世話になった母(英語)
原爆投下直後(英語)
広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)
不運だった親戚たち(英語)
息子が原爆を生き延びる希望はほとんどないと考えていた両親(英語)
核兵器についての考え(英語)
マンザナーに向かう途中での喪失
ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)
ペルーから米国へ強制連行(英語)
クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)
フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)
米国在住の日系コロンビア人(1974年生)