https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/267/
日本人移民の衣服専門家・研究者
(英語) 外の芝生には、兵士たちの毛布さえ十分にありませんでした。負傷兵は皆芝生に横たわっていました。(今でも)はっきり覚えているのが、若い兵士―ブロンド(髪)の兵士―がいて、18歳か19歳位だったと思います・・・私はその兵士の看病していました。すると彼は私に、母に手紙を書いて欲しいと頼むんです。まだ8年生だった私には難しいことでしたが、彼が言うことを手紙として書きとめ、その手紙の送り先の住所を預かりました。翌朝彼のところに戻ってみるともう死んでいました。きっとその夜に亡くなったんですね。
戦中に体験した様々なことを考えると、なんだかおかしなことばかりです。軍のトラックが家の前に停まり、私たちのプランテーション・キャンプはトラックなどで一杯になりました。怖くて外にも出られませんでしたよ。
さらにおかしなことは、その2週間後、ワシントンDCの陸軍部から手紙が届いたんです。バックグランドをチェックして、私が外国人だとわかったんですね。手紙には「ご支援に感謝します」や「良くやってくれて・・・」と(出だしに)あり、―今でもその手紙を持っています―続いて私が外国人というこで「申し訳ありませんが・・・」と。もう手助けはいらないというんですよ。たしか私の友達も含め皆支援から外されたんです。なんだか悲しかったですね。戦時中に育ったが故に、苦労させられました。(敵国の)外国人とみなされたため、午後6時以降は外出ができませんでしたし、駐屯地の近くで働くことも出来ませんでした。結構辛い思いをしましたよ。
日付: 2004年2月19日
場所: 米国、ハワイ州
インタビュアー: リサ・イタガキ、クリッシー・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
バーバラ・カワカミ氏は1921年熊本県に生まれました。彼女の家は封建時代からの農家で、そこで350年余りの歴史を持つ旧家でした。ハワイのオワフ島にあるオワフ砂糖農園で育った彼女は、仕立て屋・家政婦として働いていました。しかし、50歳を過ぎた頃、高校進学を決意し、その後テキスタイル・アンド・クロージング(繊維・衣服)の理学士号(BS)とアジア学の文学修士号(MA)を取得しました。カワカミ氏は日本人移民の衣料を専門とするストーリー・テラーであり、学者でもあります。(2004年2月19日)
最終判決 (英語)
大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)
4C-敵性外国人-に分類(英語)
血管外科医(1921年生)
本土におけるハワイの情報不足(英語)
Kobayashi Group LLCの.創設者 (1944年生)
地元新聞紙による日系人への誤った解釈に対しての十代の頃の記憶(英語)
徴兵忌避者(1925年生)
世論に影響を与えるメディアの役割(英語)
JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
大学で初めて知った強制収容の事実 (英語)
弁護士(1955年生)
「コレマツ対合衆国」裁判を読んで感じた怒り (英語)
カリフォルニア州ガーデナで育まれた順応性と競争心 (英語)
弁護士 (1946年生)
真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜査 (英語)
教師(1937-2021年)
歴史の重要性を考える (英語)
テキサス州クリスタルシティーで別人の様になっていた父との再会 (英語)
テキサス州クリスタルシティーで過ごした幼年期の思い出 (英語)
真珠湾攻撃を知った時のこと(英語)
日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)
真珠湾攻撃後に解雇された日系アメリカ人の鉄道労働者たち (英語)
初生雛鑑別師 (1923年生)