>>その1
謎が解け、コロニーの背景も
こうして酒井氏と知り合ったことをきっかけとして、これ以後何人かの人たちに取材できたことで、酒井襄氏に関する謎が一気に解けていっただけでなく、ヤマトコロニーが誕生していく歴史的な背景が明らかになっていった。というのは、電話で連絡をとった隆子さんから教えてもらった沖守弘氏という写真家にまず出会ったからだった。
沖という名前がこのコロニーへのおもな入植者の一人であることはわかっていた。1961年に新日米新聞社から発行された「米国日系人百年史―在米日系人発展人士録」には、日本からの米国移民の歴史が各州別に具体的な名前をあげながら紹介されている。フロリダ州の紹介のなかで、ヤマトコロニーについての記載があるが、そこに宮津から入植した一人として沖という名前がでてくる。しかし、苗字だけで名前はない。
この沖と縁戚関係にあるのが沖守弘氏だと教えられ、さっそく都内にある沖氏の自宅を訪ねた。昭和4年生まれの沖氏は、インドで救貧活動をつづけた修道女、マザーテレサを70年代から撮り続け、日本に紹介したことで知られる写真家で、マザーテレサの写真集も出版している。この秋にはイタリアで彼の撮ったマザーテレサの写真展が開かれるところだった。
私がヤマトコロニーについて調べていることを話すと、沖氏はこれについて彼自身が集めた数多くの資料をもとに説明してくれた。そこでわかったのは、この入植計画には財政的な支援者がいて、それが沖氏の祖父にあたる沖光三郎氏だった。光三郎氏は、丹後ちりめんの産地として有名な峰山町の出身で、兄の利三郎氏とともにちりめん問屋を経営、大成功した資産家だった。
そして、光三郎氏の妻は酒井家の出で、酒井襄氏の姉だった。つまり襄氏は光三郎氏の義理の弟にあたる。言われてみれば、フロリダのモリカミ・ミュージアムの日本庭園の一角には、沖光三郎、酒井醸と両名が併記された墓碑が建っていた。縁戚関係にあるだけでなくこの二人がコロニーの立役者だったのだ。
守弘氏によれば、光三郎氏は勉学に優れていた襄氏を援助したほか、このプロジェクトのために当時のお金で300万円という莫大な資金を提供して、宮津や現在の京丹後市である丹後半島一帯から集まった入植者たちを援助したと見られる。事実、森上助次氏は渡航にあたって沖氏から当時資金援助を受けていた。つまり、このプロジェクトに参加するもののために費用を立て替えてあげていた。
また、光三郎氏自身もフロリダにわたった。しかし、このとき48歳だった彼は入植してわずか3年後に現地で病死してしまう。守弘氏をはじめ沖家では、のちに祖父、光三郎氏の供養のためにも彼の事業の記録を残そうとコロニーに関する資料を集め、フロリダにも足を運んでいた。
この資料のなかには、ヤマトコロニーへの入植のために、宮津、京丹後などから日本を出国したと思われる人たちのリストもある。外務省にある記録をもとに沖氏が作成したもので、沖光三郎、酒井醸、森上助次などの名前と住所、渡航目的、また、いつ出国したかといった記録も記載されている。明治 35(1902)年から明治40(1907)年までの間にアメリカに渡航したコロニー関係者と思われる人たちだ。
渡航目的をみると、その多くが森上氏のように農業従事となっているが、このほか商業のためや修学、学術研究などもある。また酒井襄氏は土地開墾、視察であり、沖光三郎氏は聖博会観賞及絹布業視察となっている。聖博会とは、明治37(1904)年にアメリカのセントルイス(聖路易)で開かれていた万国博覧会のことだ。ちなみに、この時日本も出展、絹織物も展示品の一つに並んでいる。
こうした資料によって入植者の全体像が浮かび上がってきた。また、酒井醸氏については、同志社が大学になる前、同志社尋常中学の明治32年の生徒名簿のなかに、彼だと思われる酒井醇(襄あるいは醸ではない)という名前があることも突き止めていた。年代から言っても同一人物かと推測できる。
さらに、沖氏は酒井襄氏とともにアメリカに留学し、コロニー建設のきっかけをつくった奥平昌国氏の子孫にも東京で会っていた。
*本稿は、時事的な問題や日々の話題と新書を関連づけた記事や、毎月のベストセラー、新刊の批評コラムなど新書に関する情報を掲載する連想出版 のWebマガジン「風」(2010年9月30日号)からの転載です。
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