このエッセイは、シカゴ在住の増岡幸子さんによる被爆体験のスピーチを書き下ろしたものです。
皆様よくいらっしゃいました。只今ご紹介して頂きました増岡幸子と申します。今日は63年前、広島へ原爆が落とされました時に、私の体験しました事などを思い出すままに話させて頂きます。
8 月6日午前8時15分、朝礼といいまして、当時日本の学校では毎朝全校生徒が校庭に並んで朝の行事が行われていました。丁度その時に爆弾が落とされたのです。爆音を聞き空を見上げますと、澄み切った青空にたなびく白い飛行機雲が目に入りました。とその時、ピカッと光り、頬に熱いものを感じ、思わず頬を覆いました。学校は爆心地から3.5キロ位離れておりましたので、その程度で済みました。
校舎の窓ガラスが爆風で壊され、近くを歩いておられた方にその破片があたり、顔から血が流れている姿を見ました時、一体何が起こったのかと思いました。もちろん学校はお休みとなり、家に帰るようにと言われましたけれど、家の方向にはもう黒煙が上がっておりました。
校門の前に立っておりますと、次々と沢山の人が避難して来られます。どこに爆弾が落ちたのか聞いてみますと、皆さんそれぞれ違った町名を言われるのですね。それは余りにも広範囲に被害が広がっていた故でした。
家に帰るのは不可能なので、取りあえず郊外の祖母の所へ行こうと思いました。市の中心部はまだもうもうと黒煙をあげておりましたので、少し離れたもう焼け終わった辺りを通って行く事にしました。
歩くのに困難なほど、足元といいますか道々には人々が転がっていました。呻き声をあげている人、痛い痛いと言っている人、足音を聞いて顔を向けるだけの人。まともに衣服をまとっている人など一人も無く、破れた服といいますか焼け残った服を身に付けている人はまだ良い方で、ほとんどの方が裸でした。地面はそういう人で一杯でした。
歩いている人々も、まともな服装の人はほとんどありませんでした。中には、寒い寒いと言いながら、裸の上に布団を背負って歩いている人もいました。(これは後で解った事ですが皮膚を失うと体温の調節が出来なくなるのだそうです。)爆風で眼球の飛び出した方もいました。
空には凄い数のアメリカの艦載隊が、標式が見えるほど低空で飛んで来ます。まだ戦時下の事、爆弾を落とされても仕方がありません。落ちてきても、非難する場所などひとつもありません。ただ瓦礫の山が続いているのみです。でも一発の弾も飛んではきませんでした。あの時、機銃掃射を受けていたら、もっともっと沢山の命が失われた事と思います。
先日「ナガサキの郵便配達」というイギリスの人の書かれた本を読む機会がございましたけれど、その記事の中に、原爆を落とされた日の真夜中に機銃掃射を浴びせられたと書いてありました。その記事を読むまで、そういう事があったという事を私は知りませんでした。
傷つき焼きただれた人々が、言葉を発するわけでもなく、右に左に黙々と歩き続けていました。でも歩ける人は良い方で、身動きも出来ず、全身火傷を負ったまま転がっている人、人、人。これこそまさに生き地獄でなくて何でしょう。
夏の日照りの中、何時間くらい歩いたのか記憶にはありませんけど、まだ陽のある内におばあさんの家にたどり着く事が出来ました。皆さん喜んで迎えてくださいました。
翌日は、家族を探しに、昨夜遅く帰って来ました父と二人で朝早く出かけました。電車もバスもなく、ただ歩くより他ありません。
市内に入りますと、もう見渡す限り一面焼け野原といいますか、瓦礫の山です。そして至る所に人が転がっていました。それも普通ではなく裸のような状態です。その時は、火傷には余り気が付きませんでした。まだほとんどの方が生きておられました。足音を聞いて顔を向けられるのですが、声を出される方は無かったように思います。もうそれだけの体力も気力も無かったのでしょう。爆心地近くでも多くの人は即死ではなかったように思います。生きておられるのを目にしましても、余りにも沢山の被災者で、私達にはどうしてあげる事も出来ませんでした。救援の手はまだ差しのべられてはいませんでした。
電車道には、焼きただれた残骸の中に、座った姿勢のままの死体がありました。
一日中歩きまわり、家族を探す事も出来ずに空しく帰る途中、原爆ドームのそばの橋の上で、もの凄くふくれ上がった馬の死体を見ました。三倍位にはふくれていたでしょうか。もちろん、死体は馬ばかりではありません。沢山の人々の死体もありました。
橋の上から下を見ますと、川の中は何百という死体で一杯でした。当時の川は水がきれいで川底まで見えていたのです。女の方は髪が長かったので、こう、こんな形になっていました。
川原に船がありまして、船に寄りかかっている方もあり、降りてみましたところ、寄りかかった姿勢のまま死んでおられました。周りは死体で一杯でした。満潮期でしたら、これらの死体は川底に沈んで見えたのだと思われます。
月曜日の朝に川に行く人などいないので、この方達は皆猛火を逃れる為か、又は火傷を負い、水を求めて川におりて来られた方々と思われます。死体を見る事には驚かなくなっていました。にもかかわらず、ここでの惨状は目を覆うばかり、ただ涙と共に合掌するのみでした。
今年の10月、日本へ行きました折、毎日のように平和公園へ行きました。余りにもきれいに整備され過ぎて、当時を偲ぶ縁もありませんでした。船のあった辺りに石段が作られておりましたので、そこに腰をおろし水面を眺めておりますと、当時の様子が思い起こされ止めどなく涙が溢れてまいりました。
焼け跡の道端に転がっておられた人々も夕方通りました折には、みな息を引き取っておられました。この時刻になってもまだ救援の手は届いてはいませんでした。
* 本稿はシカゴ日系人歴史協会 (Chicago Japanese American Historical Society) のオンラインマガジン「Voices of Chicago」に掲載された英訳の原本です。
© 2010 Sachiko Masuoka