「人の気持ちの有り難さに触れ、私もできることをしたいと思った」
未曾有の大災害となった東日本大震災。2011年3月11日のあの日からもうすぐ3年が経とうとしている。震災発生後、全世界で支援の輪が広がったが、カリフォルニアの宮城県人会でも、米澤義人会長の指揮の下に積極的な募金活動が展開された。
避難所生活を送る人がまだ数多く復興は道半ばだが、3年の節目を前に米澤さんに話を聞いた。
震災翌日から義援金活動開始・直接受け取りに行ったことも
宮城県人会の義援金活動は、震災後すぐに開始された。
「次の日にウェブサイトを通じて義援金を呼びかけました。全米各地、ニュージャージーやオクラホマ、ワシントン州やテキサスから募金を寄せていただきました。小切手の郵送だけでなく、直接お金を取りに伺ったことも何度となくあります。実際に会って確認して寄付したいと言う方もいるのです。ある方からは、これまでにいろいろな寄付をしてきたけれど、最終的な報告が届かない。だから確実に被災地に届くのだと確認できるのだったら寄付をすると言われました。そのために義援金専門の口座を作りました。手数料だけ引かせていただくということで、現在までに16万ドル近く集まりました」
義援金活動は大きく3つの方法に分かれる。小切手を郵送してもらう方法、実際に会って受け取る方法、そして日系のイベントにブースを出して寄付金箱を設置して集める方法である。
「オレンジカウンティー、新撰組、ブリッジUSAなどさまざまな主催団体による夏祭りや七夕のイベント(後述)に出かけました。また、Tシャツを作り、1枚15ドルでドネーションと引き換えに渡しました」
義援金活動を通じて印象深かったエピソードを聞くと、米澤さんは、名前は明かせないがと断って、こんな話をしてくれた。
「実はある方から被災地に大量にお茶を寄付してくれるというお話をいただきました。しかも500万円相当のお茶です。どうして、そこまでしてくださるのかと聞いたら、随分前にその方の出身地で災害があった時に、よく覚えてないのですが、私たちがドネーションしたのだそうです。その方はその時の恩を忘れずにいてくれて、お返しをしたいと言ってくれたのです」
米澤さんは早速、宮城県庁にお茶を2日に分けて受け取れる体制を敷くように依頼した。「現地の方は美味しいお茶に、心から喜んでくれたようです」。寄付された物品を、確実に被災者の手元に届くように、アメリカにいる米澤さんが遠隔で手配したのだ。
「お茶を寄付していただいた方の気持ち、本当に有り難いものだなあと思いました。昔のことを忘れずにいてくれて。他にもポケットマネーから1,000ドル寄付してくれた方もいました。そんな大金をいただいてもいいのだろうか、と思いましたが、その方も以前に私が何かの機会に手伝ったことがあると言うのです。お手伝いしたかもしれないがよく覚えていないんですね。アメリカに来て50年以上、苦しいことがたくさんあったので、確かにそのときどきで困った方に会ったら、できることはして差し上げようとずっと思ってきました」
ビザで苦労した時、助けてくれた弁護士への恩
「人の気持ちは有り難いものだ」と実感した米澤さんの思い出話は、パンナム機で渡米した60年近く前に遡る。
宮城県庁で農業技師の職に就いていた米澤さんは、カリフォルニア州インペリアルバレーで農園を経営していた叔父の呼び寄せで1956年に海を渡った。
「ウェイキ島で給油、さらにハワイでも給油で止まりました。飛行機の中で出会った日系人の歯医者さんには、入国の書類を書くのに親切に教えていただきました。実は私、叔父の子供や孫のために浴衣をたくさん持参していました。商売すると疑われるかもしれないと、そのドクターが入国審査の時に『日系人が農業する時のユニフォームで、どうしても必要なのだ』と説明してくれたのです。もちろん、それですぐに入国のOkが出ました。またハワイでは出発まで4時間あったので、ドクターに一緒に空港の外に出ようと誘われました。でも私は右も左もわからない場所で、途中で迷惑をかけては申し訳ないとずっと空港にいると、誘いを断ったのです。すると、彼も一緒に空港に残ってくれて、しかもアイスクリームをごちそうしてくれました。その大きさにびっくりしたことを今でも覚えています」
その後、叔父の農園で2年間農業に従事した後、ロサンゼルスに移った米澤さんは再び「人の気持ちの有り難さ」に触れた。
「ビザの件で、沖縄出身の弁護士の仲村権五郎さんに手続きをしていただき、お金を払おうとすると『お金はいりません』と言われました。どうしてそんなことを言うのかと聞くと、『日系社会に残って、後から来る人のためにできることをしてあげてください』とおっしゃった」
仲村弁護士の言葉を胸に、米澤さんはUPSを退職後、宮城県人会の会長職を引き受けた。
© 2014 Keiko Fukuda