コミュニティ団体の設立初期には、ほとんどの場合ボランティアが関わっています。アメリカの非営利団体を観察すると、歴史や文化、社会貢献や病気撲滅など、団体がどのような分野で貢献しているかに関わらず、また組織の大小に関わらず、息の長い団体は総じてボランティアの多大な支援により活気づけられ、維持されています。ボランティアは各自の能力、経験、指導力、そして時間やお金を――多くの場合それら全てを――捧げ、団体の任務遂行や目的達成のために尽くしています。
『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』はニットータイヤが発案および出資し、『羅府新報』が翻訳、執筆、発行を担当しました。この冊子には全米日系人博物館(JANM)の現役ボランティアやかつてボランティアをした人々のプロフィールがまとめられています。JANMは1985年に非営利団体として正式に発足し、30周年を迎えました。どの団体にも言えることですが、博物館の起源や文化、そして成功は、現役または元ボランティアを通して最もよく理解することができます。ボランティアのほとんどが、自分は特別な存在でもないし、注目に値しないと謙遜しますが、JANMはそんな彼らの私的レベルでの貢献に目を向け、彼らに自らの人生について語っていただけるようお願いしたのです。
全米日系人博物館の活動目的は、日系アメリカ人の歴史を保存・共有し、アメリカの民族的、文化的多様性への理解や認識を促進することです。JANMは設立以来、先駆的な展示やイベント、ドキュメンタリー映像や教育プログラムに特徴づけられる国際的にもよく知られる博物館に成長しました。博物館の全ての企画の根本には、歴史の生き証人である当事者の声は何ものにも代えがたいという信念があります。
JANMが発足した頃、日系人の体験談の保存や記録はほとんど行われていませんでした。19世紀末から20世紀初頭にかけて日本から渡米して来た一世の移民たちは、1980年代までにほとんどが亡くなっており、彼らの歴史も大部分が失われていました。さらに第二次世界大戦中、日系アメリカ人は米国政府から不忠誠の烙印を押され、その多くが不当に強制退去させられ、集団収容を強いられるという壮絶な体験をしました。しかし、そのことが世の中に知られることはほとんどなく、強制収容を耐え忍んだ家族の子孫でさえも知りませんでした。
JANMボランティアの貢献をより深く理解し正確に評価するには、博物館の原点を見直す必要があります。「博物館をゼロから作るには、活動に積極的に参加し、深く関わる必要があります」こう語るのはJANM設立当時の博物館長のアイリーン・ヒラノ・イノウエ氏です。「博物館が長年にわたり、多くを成し遂げてこられたのは、ボランティアの貢献によるところが大きく、それは今でも変わりません」
JANMの最初の職員で後に地域交流部長を務めたナンシー・アラキ氏は、博物館の発足は日系アメリカ人の歴史博物館設立を求める2つのグループの結束の賜物だと語っています。アラキ氏によると、博物館の設立前、ヨンオク・キム陸軍大佐とY・バディー・マミヤ氏主宰による第100歩兵大隊・第442連隊戦闘団・アメリカ陸軍情報部博物館財団は、ビジュアル・コミュニケーション(当時アラキ氏とリンダ・マバロット氏が代表を務めていたメディアアートの団体)と共に、第二次世界大戦で戦った日系退役軍人の写真展を2回にわたり開催しました。そしてその頃、アメリカ陸軍情報部の退役軍人でありメリット貯蓄銀行の会長だったブルース・T・カジ氏と彼が主宰する日系アメリカ人の歴史博物館をつくろうというグループは、博物館をリトル東京に建設し、施設を展開していくことに力を注いでいました。
「ブルースのボランティアと知り合い、一緒に活動するようになりました。メンバーは建築担当委員(5つの建築事務所から7人の建築家が参加)やデザイナー、メリット貯蓄銀行の事務員でした」とアラキ氏は当時を振り返ります。「退役軍人のグループはプログラムの企画構成に集中し、ブルースのグループは施設の開発に力を入れていました。しかし両グループとも日系史を保存し公開することの重要性を認識していました」
1985年、アラキ氏を唯一の有給職員に迎え博物館が正式に発足すると、JANMはコミュニティ再開発局のH・クック・スノオ氏の協力を得て、すでに使われなくなっていた旧西本願寺の建物をロサンゼルス市から借りました。1986年には州上院議員アート・トレス氏の協力で多額の補助金を獲得し、現在アーツ・ディストリクトと呼ばれる古い倉庫街に事務所を構えました。そして、後に数百人にのぼることになる最初のボランティア、マサコ・コガさんを博物館に迎えました。
JANMの最初の学芸員として1987年に雇われたアケミ・キクムラ・ヤノ氏(2008年にヒラノ・イノウエ氏から館長職を引き継ぐ)は、収蔵品の管理と一世をテーマとした開館記念展の準備をおこないました。スペースと資金は限られていましたが、キクムラ・ヤノ氏はレーン・ヒラバヤシ氏、ユウジ・イチオカ氏、ロバート・スズキ氏といった学者陣やフレッド・ホシヤマ氏等日系コミュニティの重鎮を招き、コミュニティ会議を開きました。協力者はそれぞれの専門分野と貴重な時間を無償提供してくれました。
ボランティアは博物館コレクションの収集にも貢献してくれました。ホシヤマ氏が画家ヘンリー・スギモト氏をキクムラ・ヤノ氏に紹介したこともその1つです。「ヘンリーと電話で(彼はニューヨーク在住)話した時、移民体験を扱った絵画の寄贈を電話口で約束してくれました」とヤノ氏は述べています。スギモト・コレクションは、JANMの開館記念展『Issei Pioneers: Hawai`i and the Mainland, 1885-1924(一世の開拓者たちーハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史1885-1924ー)』(1992年)で何点か公開されただけでなく、『The View from Within: Japanese American Art from the Internment Camps, 1942-1945(ビュー・フロム・ウィズイン[塀の中から]ー強制収容所を描いた日系アメリカ人の芸術1942-1945ー)』(1992年)やその後の展示でも紹介されています。
1988年に館長に就任したヒラノ・イノウエ氏は、ボランティアのリーダーグループと共に活動したことについて次のように語っています。「皆さんのお陰で博物館は国内外で強い結びつきを築くことができました。理事会メンバーや資金集めの協力者であるシカゴのノビ―・ヤマコシ氏、ハワイのシーグフレッド・“シグ”・カガワ氏、ニューヨークのフランシス・ソギ氏、ワシントンDCのウィリアム・”モー”・ムラモト氏がJANMをコミュニティや経済界のリーダーに繋いでくれました」カガワ氏やジョージ・アラタニ氏(ミカサ陶器創立者)の協力により、JANMはソニー社長の盛田昭夫氏からも支援を受けることになりました。そして盛田氏との結びつきにより日本の経団連から約1,000万ドルの寄付が約束され、1999年には新館パビリオンが完成しました。
1992年の博物館の一般公開に伴い、ボランティアの役割は広がりました。ヒラノ・イノウエ氏は、ボランティアは「所蔵コレクション、口述歴史記録プロジェクト、展示、ミュージアムストアー、地域社会へのアウトリーチ活動、会員制度、寄付行為といった博物館のすべての分野に関わりました。博物館がヒストリック・ビルディング(旧西本願寺の建物)でオープンした時、ボランティアは来館者の出迎えとガイドを担当し、来館者一人ひとりが歓迎されていると感じられるようにしてくれました」と述べています。
元教員のビル・シシマ氏、マス・マスモト氏、ハル・ケイミ氏は、「博物館の代表的事業」であるJANMの学校対象ツアープログラムを始めた中心メンバーでした。故ダニエル・イノウエ上院議員は、多くの学生がボランティアガイドのツアーを受けられるようにと、「Bid for Education」と呼ばれるファンドレイジングを創め、自身もボランティアとして寄付を呼びかけ、送迎バスや教員教育、入館にかかる費用を支援しました。
キクムラ・ヤノ氏とヒラノ・イノウエ氏は、資金集めや地域展の企画運営を支援してくれたボランティアの尽力を称賛しています。フレッド・ホシヤマ氏と職員フローレンス・オチ氏は南カリフォルニアのボランティアを集め、寄付を募るキャンペーンを複数回開催し、100万ドル以上集めました。キクムラ・ヤノ氏は、ハワイ、オレゴン、ワシントン、ニューヨーク地域のボランティアの貢献について次のように述べています。
「かなりの額の寄付をいただきました。そして博物館コレクションの設立だけでなく、日系の歴史と文化を一人称の視点で記録、解釈し、認証する活動にも積極的に関わってくれました」同様にヒラノ・イノウエ氏は、各地域のボランティアがそれぞれの地元で開催した展示、『In This Great Land of Freedom: The Japanese Pioneers of Oregon(この偉大なる大地で:オレゴンの日系人開拓者)』と『From Bento to Mixed Plate: Americans of Japanese Ancestry in Multicultural Hawai`i(弁当からミックス・プレートへ: 多文化社会ハワイの日系アメリカ人)』について言及し、地域ボランティアが「重要な多様性や語られることのなかった物語を日系史に新たに加えてくれた」
実に多くの博物館ボランティアが、それぞれの私的な唯一無二のストーリーを語ってくれました。この冊子では、ボランティア本人や家族について日英両言語で紹介しています。インタビューではそれぞれのボランティアの人生を紹介していますが、学術的な詳細を列挙した口述歴史資料としてではなく、素晴らしい人々の私的な物語の要約として読んでいただければと思います。インタビューの多くは『日刊サン』によって行なわれ、『羅府新報』が執筆と翻訳、編集を担当しました。
ここで紹介するボランティアは、博物館の長い歴史と重なります。最初のボランティアであるマサコ・コガさん(現ムラカミ)、テリー・タニムラさん、ボブ・ウラガミさんから比較的最近ボランティアを始めた若い世代のライアン・タケモトさん、カイル・ホンマさんまで、それぞれのボランティアはJANMの様々な時代を映し出しています。既婚カップルが3組(ムラカミ夫妻、ヤマシタ夫妻、ヤスダ夫妻)、90代が数人、非アジア系が2人(ネーハン・グルックさん、キャサリン・マデラさん)、親友の2人(ジャネット・マロニーさん、アイリーン・ナカガワさん)、そして日本語を話すボランティアも何人か登場します。ケン・ハマムラさんは、博物館職員、ボランティア、理事を兼任する珍しい存在です。
ボランティアの家族の物語には、日系アメリカ人史と同じだけの奥行きがあります。ボランティアの多くが自身の家族史を学び、記録することに時間と労力を費やしてきたことは意外ではありません。インタビューで語られたストーリーにはたくさんの共通点がありますが、彼らの地理的、世代的、そして文化的背景は多様です。19世紀に先祖がアメリカに渡ったという人もいれば、ほんの2、30年前という人もいます。アメリカで生まれ、日本で教育を受けた人もいます。ここで紹介するのは短い要約ですが、ボランティア一人ひとりの人物像、思い、日系として受け継いだこととの関係の本質に迫る試みがなされています。
ヒラノ・イノウエ氏は、全米日系人博物館のボランティアへの思いをこのようにまとめています。「ボランティアの最大の貢献は、日系アメリカ人の物語の核心に命を吹き込むという、博物館の仕事の核となる部分を担ってくれたことです。ボランティアは自らの物語や知識、時間を差し出し、全米日系人博物館をかけがえのない、意義深い場所にしてくれました」
* 本稿は、 ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へクリス・コマイ氏が執筆したものです。写真は全て全米日系人博物館が提供。
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