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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2019/2/14/chikara-mochi-1/

「ちからもち」、再建への道:和菓子職人の技、兄から妹へ - その1

ちからもちの店内で、左から従業員のマリさん、和菓子職人の伊藤衣枝さん、オーナーの小池正文さん

1985年、熊本出身の職人がロサンゼルスに和菓子屋を開店した。日本各地で鳴らした和菓子職人の率いるこの店が、地元の茶の湯で信頼される存在となるのに時間はかからなかった。順調だった店にやがて最初の不幸が訪れ店は窮地に立たされる―。創業者家族から店を受け継ぎ再建させた妹夫婦。いくつもの困難を乗り越え不安に苛まれながらも、兄から受け継いだ職人の技を以って、今では店を順調に切り盛りする。「周りの人に助けられてここまで来た」

ロサンゼルスに残る数少ない和菓子屋のひとつ、「ちからもち」の34年の足取りを取材した。

和菓子作りすべてあんばいで、手間惜しまず、原料大切に

午前2時半。ガーデナのウエスタン通りにある和菓子屋「ちからもち」の製造所に灯りがともり、オーナーの小池正文さんがスチーマーを温め始める。この蒸し器に十分な蒸気が上がるまで小池さんは機材の並ぶ広い作業場にひとり。半時間ほどして餅を蒸す準備が整うころ、次の職人がやってくる。蒸し上がりの時間は種類による。一つが蒸しあがるころ、もうひとりが出勤する。

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餅を伸ばし均等に切る。でき上がった餡(あん)を餅で包み形成し、飾り付けるのは小池さんの妻で和菓子職人の伊藤衣枝さんの仕事。数人のスタッフと共に梱包、出荷作業。9時の開店に合わせ、できたての和菓子が店頭に並ぶ。それから昼ごろまでには翌日の仕込みを終える。

和菓子だけで日に300個。あんパンや栗まんじゅうなどの焼きもの類、赤飯や団子、おはぎを入れれば、さらに100個以上が上乗せされる。

和菓子の店舗販売だけなら午前5、6時からで間に合う。だが日系マーケットなどへ卸販売のため、出荷のトラックが来るのに合わせ早い時刻から製造し始めるのだという。小池さんは「かつてLAに5軒あった和菓子屋が3軒になった。そのうち卸をするのは2軒」と現状を語る。

衣枝さんが一つひとつ手作りするという和菓子は小ぶりで上品。デザインの繊細さ、デコレーションの美しさや自然な色合いは、日本人として違和感なくすっと受け入れられる。「大きさは日本製の小箱に収まるサイズに。あまり大きいとあか抜けないので。決してケチっているわけではないですよ」衣枝さんは笑いながら念を押す。

日本から取り寄せるのは箱だけにとどまらない。長野県の寒天は近隣諸国産のものでは代用できないほどの品質の良さ。和菓子用の特殊な装飾材料もすべて日本から。

桜餅などに使用される道明寺粉

納得のいく材料へのこだわりは、当地で仕入れる砂糖や小豆(あずき)、もち米や上新粉(米粉)などにも現れる。

既成の餡は使えない。「豆を炊いて、小豆から出る渋をとる。その渋を赤飯に使う。最初から(順番に)しないとできない。体がそういうサイクルになっているので。(既成品を使う)途中の行程からだと、どうしたら良いか逆にわからない」

ただ、餡に大納言(小豆の種類)は使えない。「3倍くらいの値段をつけないと採算が合わない」と二人は笑う。

先代から受け継いだ味に仕上げるための工夫はどんなものだろう。「手間を惜しまないことと、あんばいでやること。洋菓子は温度や分量をきちっと測るが、和菓子はどちらかというとすべてがあんばい」。日本料理にも通じるかとの問いに衣枝さんは「そう思う」。「季節や温度で仕上がりが違う。引いた粉も水の吸いかたが日によって違う。毎回、違う。味が毎回違うから飽きない」と衣枝さん。「だからお客さんも飽きないのでは」小池さんも同意する。

原料を大切に使う。手間を惜しまない。「自分たちが続けて行く限り、このスタイルは変わらないと思う」衣枝さんは力を込めた。

「兄は腕のいい職人だった」丸岡力さん、85年に独立創業

ちからもちの創業者は衣枝さんの実兄の丸岡力さん。丸岡さんは熊本県で中学校を卒業後、和菓子職人になるため15歳で関西へ出た。妻の陽子さんは「昔の弟子入りは子守りもする丁稚(でっち)奉公のような修業。そこを出た後は茶の湯の盛んな地方を周り、その地域に伝わる和菓子を学ぶ。畳の上に座ったままヘラひとつで和菓子を作ることもあった」と当時を語る。

10年ほど日本各地で働き腕を磨いたころ、職人を探していたLAの和菓子屋「三河屋」に誘われ来米。1971年から2年ほど続け、契約終了とともに故郷に帰った。73年、今度は熊本市内で自分の店「ちからもち」を開店した。77年になり再び三河屋から呼ばれた丸岡さんは、陽子さんや2人の息子を連れ、再びLAに降り立った。今度は永住を目的にして。

25年前の年末の製造所の風景。通常の2倍以上の作業員総出で新年へ向けての出荷に当たっていた。中央が丸岡さん

「独立したのは85年。最初はロサンゼルスの7街とスタンフォード辺りの敷地で、卸だけを2年ほどしていた」。陽子さんは当時の記憶を呼び起こしながら答えた。その後ガーデナに移って小売も始めた。当時ガーデナには日本人が多く住んでいたため、客のほとんどが日本人や日系米人だった。

職人気質で「和菓子のことだけを考えながら生活していた」丸岡さんは、お酒を少量飲むことが唯一の趣味だったという。

茶道関係者からの注文も多く受けるようになった。若い店を応援するような気持ちからか、どこの教室も同店に注文してくれたのだという。「兄は腕のいい職人さんだった」。衣枝さんはしみじみと語った。

店主、丸岡さんの急死、職人不在でさらなる窮地に

寒天やもち米など、使用する材料の説明をする衣枝さん

店は80年代後半のバブル期を経て順調に売り上げていた。90年にLAに移り住んだ衣枝さんは、主婦として暮らすかたわら兄の店を手伝っていた。日本経済が傾き、駐在員が帰国していった97年。店主の急死という不幸が店を襲った。丸岡さんから急きょ店を引き継いだ陽子さんは、20代だった息子2人を職人として雇うことに。店主と職人を同時に失う事態を何とか切り抜けたかに見えたが、10年近く経ったころ、店は2度目の窮地に立たされた。

慣れない世界で頑張ってきた息子たちが相次いで店を去り、職人不在の状況に。

後継者は側で兄の仕事を見てきた衣枝さんのみ。「従業員みんなが続けるというので私が引き継ぐことにした」。店を閉めるわけには行かない。従業員にも自分にも、養うべき家族がいるからだ。

こう決断できたのには夫の小池さんの存在も大きかった。和菓子とはまったく縁のない生活をしてきた小池さんは結婚前、丸岡さんの友人として店に出入りしていた。元はVIP専門のリムジンドライバーだった。店を継いだ衣枝さんが体を壊したことと、自身も腰を痛めて運転手の仕事を離れたことから、家族の手伝いを少しずつ始めた。やがて和菓子屋が本業になった。「目まぐるしかった」。2人は当時を思い起こす。きちんと店を継いだのが2009年。この時、さらなる困難が待ち受けていようとは思いもよらなかった。

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* 本稿は『羅府新報』(2019年1月1日)からの転載です。

 

© 2019 Mie Aso / Rafu Shimpo

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執筆者について

大分県出身、京都女子大学卒、古美術・学術系出版社勤務。渡米後、フリーランスライターとして映画雑誌で執筆。17年より羅府新報社記者。

(2019年2月 更新)

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