助けられた日系住民、真心の交流
戦時中の立ち退き命令により、多くの日系住民が汗と涙で築き上げた家や土地、仕事など苦労の結晶すべてを失った。
中には収容所に収容されている間、家や土地の管理をかってでる非日系米国人もいた。しかしその多くが無断で土地を売るなどし、強制収容所から戻ってくると、かつてのわが家や土地が他者のものになっているケースも多かった。
カリフォルニアのライス・キングとして知られる故・国府田敬三郎氏もその一人だ。強制収容所に収容されている間、国府田氏は農園の管理を依頼していた非日系米国人に裏切られ、所有していた土地の3分の2と精米所が無断で売り飛ばされ、戦前所有していた広大な土地を失っている。
しかしそんな中でも、日系人が強制収容所に収容されている間、彼らの家や土地を守り続けた非日系米国人がいた。
ここでは日系住民が収容所から帰ってくるまで彼らの土地を守り続けた人たちの一部を紹介したい。排日感情が高まる中、時に同じ非日系米国人から中傷や非難を受けようとも日系住民との約束を守り抜いた人々―。当時子どもだった日系住民が彼らとの真心の交流、そしてよみがえる思い出を羅府新報に語ってくれた。
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日系家族の農園守り続けた人:ボブ・フレッチャー
サクラメント郡エルクグローブに住む日系3世のマリエール・ツカモトさんは強制収容所に収容された日系人の一人だ。彼女は5歳の時、家族とともにアーカンソー州のジェローム強制収容所に収容された。
ツカモトさん一家は戦前、フロリンで農業を営み、いちごやブドウなどを育てていた。しかし日米開戦とともに一家を取り巻く環境は一変する。強制退去を強いられ、これまで耕してきた農地、住んでいた家の行く末にも暗雲が立ちこめた。
そんな時、一筋の希望の光が差し込む。一人の非日系米国人の男が一家の前に現れたのだ。
その男の名はボブ・フレッチャー。当時彼はカリフォルニア州の農業検査官だった。しかし農業検査官の仕事を辞め、ツカモトさん一家をはじめ近隣のニットウ、オカモト両家の計3家族の約90エーカーの畑を管理しておくことを約束してくれたのだ。
「ボブは私たちが収容所にいる間、畑を耕していてくれただけでなく、税金も支払い、そして農作物の収益のほとんども私たちのためにとっておいてくれたのです。私たちが収容所から戻ってきたらすぐに生活できるようにと」
当時フロリン周辺でも日系人の農園を引き継いだ非日系米国人はたくさんいたという。「けれども多くの人が農園を自分たちのものにしてしまった。中には土地を耕さず農作物を枯らしてしまった人もたくさんいました」
強制収容所から戻ってきた日系住民はこのように変わり果てた自らの農園を目の当たりにしたのだ。
一方、フレッチャーさんと妻のテレサさんはツカモトさん一家を気遣い、一家が収容所から戻ってくると分かると、一家が住んでいた家をきれいに掃除し、冷蔵庫の中には食料まで準備し待っていてくれた。
日系住民の中には運良く家や農園が残っていた人もいた。しかし多くの家は電気が通らず、食べ物もない人がほとんどだった。
「収容所へは着の身着のままの状態で送られました。動物を持っていくこともできなかったので、当時飼っていた愛犬アピとは離ればなれになってしまった。アピは家族の一員だったのに私は泣きながら置き去りにせざるを得なかったのです」
後にフレッチャーさんがツカモトさんに語ったところによると、アピは突然姿を消していなくなってしまったという。「恐らく私たちを探しに行ったきり戻らなかったんだと思う」。5歳の女の子には辛すぎる別れだった。
「同じ過ち繰り返してる」
強制収容所から帰ってきてからも、日系住民に対する偏見は続いた。「父は差別を恐れ、収容所から自宅に戻ってきた時、誰にも私たちが帰って来たことを悟られないよう車のライトを消して戻ったのです」
店に買い物に行っても物を売ってもらえなかったり、レストランにも入れてもらえないこともあったという。「小さい時から差別を受けるのを恐れていました。『日本人だから気を付けなければいけない』と。私は『アメリカ人』になりたかった。だから日本語学校には行かなかった」
しかし戦後5年、10年と経過するうちに、日系の店も少しずつ増え状況は徐々に改善していったという。
ツカモトさんはJACLのフロリン・サクラメント支部の前会長だ。昨年、移民の子どもたちを収容するためオクラホマ州にあるフォートシル軍用基地を活用するというトランプ政権の移民政策に反対する日系市民団体「ツル・フォー・ソリダリティ(団結のための折り鶴)」の活動に賛同し、戦時中に強制収容所に送られた一人として、たくさんの鶴を折り連帯を表明した。
「現政権の移民政策は危険です。日系人へ犯した過ちを繰り返そうとしている。私は彼ら(移民の子)と同じ経験をしている。だから彼らのために立ち上がる」と力を込めた。
時に銃弾撃ち込まれても
ツカモトさんの父はある時、倉庫の窓に銃弾が打ち込まれた痕があるのを発見した。「収容所に行く前はそんな銃弾の痕などなかった。もしハンターがいたとしても、誰が倉庫に向かって撃ちますか?」。何者かが日系住民を助けるフレッチャーさんを狙って撃ったのは明らかだった。
「ボブはとても謙虚で控えめな人。たまたま銃弾がボブに当たらなかっただけで、誰かが彼をめがけて撃とうとしたのは明らかでした。彼は悪いことは決して口にしない人だった。日本人の土地を世話しているボブも差別的待遇を受けなかったか父が問いただしても、彼はいつも『僕は忙しかったから気にしていなかったよ』としか答えなかった」
フレッチャーさんはその後、当時消防署がなかったフロリンでボランティアの消防隊員になり、フロリンに消防署が設立されると署長となって活躍。地域コミュニティーの活動にも積極的に参加し、コミュニティーリーダーとして知られるようになる。
そして2013年、5月23日サクラメントで息を引きとった。101歳だった。現在フロリンの町には彼の名を冠したコミュニティーセンターや道路もある。
ツカモトさんによるとフレッチャーさんは決して自分がしたことをみんなに知ってもらおうとはしなかったという。しかしある時こう話したという。
「自分がしたことは特別なことではないんだ。ただ正しいと思うことをしただけ」
* 本稿は、『羅府新報』(2020年1月3日付)からの転載です。
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