ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2023/7/3/hiromi-aoyama/

アメリカで生まれ育った日系新二世・大卒後に日本で4年半過ごした青山裕美さん

2023年に訪れた日本で。

新二世っぽさ

日本で生まれ育ち、アメリカに移住してきた私はいわゆる「新一世」だ。そして、私の子どもたちは「新二世」に当たる。しかし、一口に「新二世」と言っても、彼らの日本語や日本文化の適応度はさまざまだ。日本語学校に通ったか、通わなかったか、親が家庭で日本語の会話を徹底していたか、していなかったか、または夏休みに日本の学校に体験入学したか、それともしなかったかなど、親の教育方針、友達関係、環境、経験、そして本人の指向によって、「日本人度合い」は大きく異なる。

青山裕美さんはロサンゼルスにある非営利団体の広報の仕事に就いている。日本語雑誌の記事のために、最初にオンライン取材をさせてもらった時に、日本語は完璧だが、どこか「新二世っぽさ」を感じた。日本で生まれ育った人がアメリカに留学してきて、そのままアメリカで働いているケースだってある。しかし、青山さんの醸し出す雰囲気は「元日本人留学生」ではなかった。新二世の子どもたちを育てた親の勘としか言えないが、青山さんには私の子どもたちに通じるものを感じたのだ。

聞けば、父親の仕事の関係で、アメリカで生まれ育ち、アメリカの大学を卒業した後に日本の企業に就職、数年日本で過ごした後に「価値観の違い」を理由に、再びアメリカに戻ってロサンゼルスで働いているのだと話してくれた。私の勘は当たっていた。早速、「日系のアイデンティティーをテーマにした媒体での取材を受けてほしい」と申し込むと、青山さんは快諾してくれたのだった。

青山さんの両親は1980年代に渡米、90年代に長女の裕美さんが生まれた。「父は、アメリカの子会社のサポートのために出向してきたので、いずれは日本に帰る予定でした(結果的にはアメリカに永住した)。家はロサンゼルス郊外のジューイッシュコミュニティーにあって、周囲には日本人や日系人はほとんどいない環境でした。でも、いずれ日本に帰るということで、私は毎週末、補習校のあさひ学園サンタモニカ校に高校卒業まで通いました。家では『日本語だけ』というルールでした。土曜に補習校に通うことがいやではなかったか?補習校では友達とJ-PopのCDを交換したり、日本のドラマやバラエティーを話題にしたりしていて交流していたので、日本語を続けることは全く苦ではありませんでしたね」。

補習校に楽しく通い、家庭では日本語、しかも中学校までは毎年日本で体験入学していたという経験から、青山さんは「英語より日本語の方が自分で言いたいことが言えていました。英語で自由に話せるようになったのは、実は大学に入ってからなのです」と話すほど、「自分は(アメリカ人よりも)日本人寄りだった、と思っていた」と打ち明ける。

日本に一度は住んでみたい 

高校卒業後に一度、日本の大学入学についても検討したが、結局UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)に進学し、コミュニケーションを専攻。継承日本語クラスを選択し、日系人学生会でも活動した。そして、日本に一度は住んでみたいという気持ちが膨らみ、卒業半年前に参加したボストンキャリフォーラムで日本の企業の内定を勝ち取り、東京での生活を始めた。

UCLAの大学生時代、ジャパンクラブでマンザナー収容所跡を浴衣姿で訪れた(青山さんは左から3人目)。

「仕事は営業支援で、シンガポールや香港にも出張し、その際には通訳を務めました。通訳として言語を習得していたことを生かすことができ、貴重な経験をさせていただきました」と語る青山さんだが、入社1年目ですでに「アメリカに帰りたい」という気持ちが芽生えていたのだと振り返る。

日本の会社員時代(青山さんは左)。

「価値観が違うということに悩みました。女性の間では時折、マウンティングが行われ、自分が自分のままでいられないことに、自尊心が傷つけられたように感じました。また、日本人の本音と建前の違いにも慣れることができませんでした。お酒の席で人の悪口を言っていても、翌日は何もなかったようにその人に従っている。それでは根本的な解決にならないのではないかと疑問でしたし、日本の社会の普通が自分にとっての普通ではなかったんです。一番、ショックだったのは、私が女性だからという理由で、ある国への海外出張に行かせてもらえなかったことです」。

女性を危ない目に遭わせられないという配慮だと青山さんは理解していたが、日本では女性に男性と同じ機会を提供されないように思えた。さらに、男性は上司からきつく叱られているのに、女性社員は叱られることはほとんどなかったとも話す。「それは女性が期待されていないからではないか、と当時はそう思っていました」。

さらに流暢な日本語を話し、日本人の顔と名前を持つ青山さんには、外国人社員としてのサポートが受けられなかったそうだ。「日本に初めて住むので銀行口座の開け方など全て分からないことだらけでした。後から外国人の新入社員には生活立ち上げのサポートが提供されていたと知りました」。

こうして1年目で「帰りたい」と思ってはいたものの、「石の上にも三年」という言葉と、日本的な企業文化にはなじめなかったながらも「周囲の人々に恵まれた」ことを支えに、4年半勤務した後、アメリカに戻ってきた。「私は思っていた以上に、中身はアメリカ人だったんだなって思い知らされました」。

さて、アメリカに戻ってきて自分らしさを取り戻せたのだろうか?「日本ではこうあらねばならないというルールにきつく締め付けられていたような気がしていました。でも、今はそれを心配する必要はありません。帰ってきたばかりの頃、職場でも日本的な根回しはしなくてよくて、『会議で議論すればいいから』と言われた時は安心できました。ほっとしますね」。

自分が日本人的だと思っていても、実際に日本に住んで働いてみなければ本当のことは分からない。青山さんの体験談を聞きながら、私はアメリカで生まれ育った大学生の娘の将来に思いを馳せたのだった。

 

© 2023 Keiko Fukuda

世代 アイデンティティ 移住 (immigration) 日本 日系アメリカ人 戦後 新二世 アメリカ合衆国 第二次世界大戦
執筆者について

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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