一世の記録を拾い集めた男 ~加藤新一の足跡をたどって~
1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。
このシリーズのストーリー
第23回 再びアメリカへ
2021年10月22日 • 川井 龍介
1952年11月に広島で開かれた世界連邦アジア会議の事務局長を務め、日本国連協会広島県本部事務局長の職にあった加藤新一は、日本での平和運動の職を捨て、1953年4月再びアメリカに渡った。 1961年の時点での本人による1953年からの経歴は、次のようになっている。 1953年産経新聞特派員として再渡米、のち新日米新聞社に入社、次々に家族を呼寄せ、1958年米国永住権を獲得、現在(※注1961年)同社主幹。同社の1955年度版及び1959年度版全米日系人住所録を編集、19…
第22回 広島で平和運動に取り組むが…
2021年10月8日 • 川井 龍介
知事に請われて県広報委員長にも 日米開戦後アメリカから日米交換船で郷里の広島に引き揚げてきた加藤新一は、中国新聞の記者となり、一時は編集局次長の職についた。その後同社に誕生した従業員組合の委員長(組合長)となるなど多方面で活躍したが、1949年、7年間つとめた同社を退社する。新聞社時代の先輩、村上哲夫氏によれば、当時の楠瀬常猪・広島県知事に請われて、初代の広島県広報委員会委員長に就任、1951年に知事が楠瀬から大原博夫に代わってからも一年余り広報委員長を務めたという。 …
第20回 アメリカ撮影の映像の中に
2021年9月10日 • 川井 龍介
原爆投下からひと月ほどして加藤新一は、広島を訪れた赤十字駐日首席代表のマルセル・ジュノー博士の通訳兼案内を担った。そして11月1日付で政治部長に就任、翌46年2月には、社長交代にともなう中国新聞社の社内体制の刷新によって、編集局次長になった。 このころの加藤はどのような活動をしていたのか、加藤の甥にあたる吉田順治さんに尋ねてみると、当時の姿はインターネット上の映像でみることができるという。 それは、Youtube にあげられた17分余のカラー映像で、音声はなかった。映像…
第19回 被爆直後の中国新聞と加藤
2021年8月27日 • 川井 龍介
原爆による広島の街と人の惨状を目にしたこと、そして弟と妹を原爆で失ったことは、のちに加藤新一が平和運動に邁進する原点であった。 前回紹介した、被爆当日に広島市内を駆け回った加藤の手記のなかで、弟、妹の死についてはこう記されている。 弟省三(当時廿四才)は原爆三日後、妹文江(当時二二才)は一ケ月後に「兄さん仇を討って――」と死んでいったが、無数の犠牲者が屍体も不明のまま、広島市中央を南北に二分し、南を海軍、北を陸軍が、被爆四日目ごろから低地に屍体を集めて積みあげ、油を…