「バイカルチュラル」な人間性は、どのようにして形成されるのでしょうか。日本社会では異文化理解の重要性が強調されると同時に、「バイカルチュラル」にたいする関心が高まりつつあります。
「バイカルチュラル」であるためには、文化や民族といった「つながり」と真剣に向きあい、それらをアイデンティティとして受けいれる能力が必要とされます。日本社会では、単一民族、単一文化という考え方が良くも悪くも社会に定着したことから、「バイカルチュラル」そのものに対するる理解が深まっているとはいえません。
今回は、日系食文化をとおして、わたしが「バイカルチュラル」な人間性を身につけた経緯を、皆様と分かちあいたいと思います。
① スパイシー・ツナ・ロールとの遭遇
2002年の夏、わたしがアメリカの地に足を踏みいれて間もない頃、小東京で「SUSHI」を食べたことがありました。レストランに入るとすぐに、非常に興味深いものを見つけたので、それを注文しました。それは・・・
スパイシー・ツナ・ロール
スパイシー・ツナ・ロールという面白い名前。そして、パンチのきいた辛味の心地良さは、日本では見ることも味わうことの出来ないものです。わたしにとって、それは非常に異質なもので、得体の知れない食べ物でした。日本の「寿司」のようで、「寿司」ではない、とても不思議な存在でした。
小東京で味わったスパイシー・ツナ・ロール。アメリカに来たばかりのわたしにとって、それは文化の「洗礼」でした。また、アメリカの歴史や文化を幅広い視点で理解するための、ひとつのきっかけでもありました。
② アメリカナイゼーションの日々
2002年の秋、わたしはコミュニティ・カレッジに通いつつ、アメリカの歴史や文化を幅広く理解するために、積極的にアメリカ人の友人をつくりました。それは、メインストリームのアメリカ食文化との出会いでもありました。
お世話になっていた歴史学の先生から、わたしはアメリカのさまざまな食べ物について、その食べ方や文化的な背景などを学びました。彼女は学生からはとても厳しいという評判でしたが、本当は学生思いで、少しばかりお茶目なところのある魅力的な人物です。
メインストリームのアメリカ食文化をとおして、わたしはアメリカナイゼーションというひとつの過渡期を経験しました。当時の私は、出自や外見は日本(台湾)ではあるものの、精神の面においては、アメリカ人になることを目指していたのです。
普段の食生活では、炊きたてのご飯から酸味のきいたサワー・ブレッド、そして卵かけご飯からスクランブル・エッグへと、わたしはメインストリームのアメリカ食文化「三昧」の生活をしていました。
③ 「SUSHI」の魅力の再発見―エスニック・スタディーズとわたし
2005年の夏、フラトンの加州州立大学に編入したわたしは、エスニック・スタディーズを専攻して、アジア大洋州系アメリカ人の歴史を勉強しはじめました。
エスニック・スタディーズをとおして理解したことは、アジア大洋州系アメリカ人が、アジアとの「つながり」を守りつつ、メインストリームのアメリカ社会において受けいれられるための創意工夫をこらした「バイカルチュラル」な文化を創ったということです。
メインストリームのアメリカ社会では、アジア大洋州系アメリカ人の文化が幅広く受けいれられています。そのことを知ったとき、わたしは、アメリカに来たばかりのときに出会ったスパイシー・ツナ・ロールをもう一度味わってみたいと思いました。
スパイシー・ツナ・ロールは、「寿司」という日本に「つながり」をもつ食べ物です。それは「SUSHI」というメインストリームのアメリカ社会のなかで発展した食べ物でもあります。日本とアメリカ、二つの国と二つの文化圏に「つながり」をもつ「SUSHI」は、日系文化を代表する「バイカルチュラル」な食文化といえます。
それでは、「バイカルチュラル」は人間にも当てはまるのでしょうか。日系人を例にして考えてみましょう。
日系人はアメリカ人であると同時に、日本との「つながり」をもつ人々です。日系人は、メインストリームのアメリカ社会のなかで、さまざまな活躍をされていますが、何かしら日本との「つながり」を守っている人々でもあります。
「バイカルチュラル」であることは、多くのアメリカ人にあてはまる特徴のひとつです。それは、「人間的な魅力」でもあります。それを知ったとき、わたしは自分の「バイカルチュラル」なアイデンティティに自信がもてるようにもなりました。
④ 「バイカルチュラル」としての再出発
台湾系日本人という、真の「バイカルチュラル」となったわたしが積極的に取りくんでいることは、オーラル・ヒストリーをとおした、日系人と、日本人の「語り」を集めて、それを未来にたくすことです。それは,わたしにとってのライフ・ワークでもあり、使命でもあります。
今後の日本社会においては、さらに多くの「バイカルチュラル」の人材が求められます。単一民族、単一文化といった、当たり前とされていた考えからの脱却は、日本社会の発展に必要なものであると、わたしは思います。
© 2012 Takamichi Go