南米から沖縄へ「移住」
2010年1月に沖縄を訪れる機会に恵まれた。日本政府が北米の旅行代理店を日本に招聘するファムトリップ(視察旅行)に、取材ライターとして同行したのだ。10名の一行は、東京、京都、大阪を1日ずつ見て回った後、沖縄に到着した。
沖縄滞在の2日目、視察旅行の目的の一つであるホテルの下見がスケジュールに組み込まれていた。名護のマリオット、万座ビーチのANAインターコンチネンタルに続いて訪れたのがブセナテラスという高級リゾートホテル。ここで迎えてくれたザ・テラスホテルグループ(ブセナテラス含め沖縄で3つのホテルを経営)のセールス担当の男性に渡された名刺に、私は興味を覚えた。そこには「島袋 知念 アンドレス」とあった。
父方の名字の島袋、そして母方の知念、まさに純粋な沖縄出身というアピールに思えるが、それにしても「アンドレス」とは?聞けば、ペルー生まれで子供の頃に家族で沖縄に引き揚げて来たのだと教えてくれた。そう言えば、私が昔、東京で一緒に働いていた同僚も、沖縄にUターンした後、ペルー生まれの男性と結婚している。それを聞かされた時、大勢の移民がハワイ、アメリカ本土、南米に向けて沖縄から移住したが、彼らが再び沖縄に戻って来るという流れもあるのだということを知り、興味を引かれたのだった。
宗教への違和感から異文化に興味
アンディさん(アンドレスさんの愛称)は、1978年にペルーのリマで生まれた。沖縄からペルーへと移民したのは彼の祖父の代、アンディさんは日系3世ということになる。
大都市圏リマで、父親は電子エンジニア、母親は秘書という家庭環境で成長した彼は、子供の頃は特に「日系」という意識は持っていなかったそうだ。「確かに県人会や日本語学校など、ペルーには日系人が集まる場所が多かったのですが、一度も日本人、日系人と意識することなく、常に自分はペルー人だと思っていました」。
自らを「ペルー人」だと捉えていた彼に転機が訪れたのは11歳、小学校6年生の時だった。
本家の家系にあたるため、沖縄にある仏壇を引き継がなければならなくなり、一家は沖縄に「移住」したのだった。ペルーの生活に馴染んでいた少年にとって、先祖の地は別世界だった。しばらくは、学校の友達に毎月手紙を出す程ペルーが恋しかったと振り返る。
「沖縄の最初の印象は蒸し暑いということ。そして、思ったより近代化されているということでした。さらに失敗と言えば、靴のまま家に上がってしまったことですね(笑)。生活習慣が違うのでいろいろ苦労をしましたが、特に『宗教』には違和感を抱きました。ペルーではカトリックでありながら、祖母の家に仏壇があったので宗教の共存は当たり前でした。しかし、沖縄でうっかり仏壇の前で十字を切ってしまった時、もの凄く怒られたんです。そのことを今でも鮮明に覚えています。そのような経験から、異文化について興味が出て来ました」
スペイン語はペルー生まれの証し
アンディさん一家が沖縄に移住した当時は、同じように南米から引き揚げて来る日系人が多かったこともあり、彼が住んでいた沖縄市の教育委員会は、週1日、日本語教室を開催していた。「そこでの交流は良い思い出です。同じように異文化の中で苦労している外国人たちと触れ合うことで、精神的に支えられました。今でも日本語教室の仲間たちとは仲良くしています」
沖縄に移住した頃は「外国人コンプレックス」のせいで、どこか居心地が悪かったそうだが、高校生になる頃には、自分が持っている文化的背景を武器にすればいいのだと、アンディさんは考え方を転換させた。
「自分が持っている武器、それは語学(スペイン語)です。語学だけでなく、異文化にも興味があったので大学では国際文化を学びました。卒業後、中学校の臨時教師を1年務め,その後、国際会議(米州開発銀行)の実行委員会の経験を経て、現在の会社に誘われて5年目になります」
スペイン語は、意識的に家族の間で使うように努力を続けて来た。さらにインターネットや新聞をスペイン語で読み、最新情報の入手も怠らない。「スペイン語は、自分がペルーで生まれた証しなのです」
さらに、彼自身「勉強中」と謙遜するが、北米からの旅行代理店の人々に向けては流暢な英語で案内していた。
最後に「将来の夢」について質問した。「守らないといけない文化、相手を理解し受け入れる文化は、現在のグローバリゼーション社会には必要であり、自文化と他文化の共存がうまくいけば、争い事が減り,少しでも平和な世界に近づけるのではないかと思います。自分の持っている経験を生かし、皆が笑顔で仕事や生活ができるような環境と社会作りが私の目標です」
彼のような意識を持った人々が世界中に増えることで、「平和な世界」に確実に近づくはずだ。しかし、私はまず目の前にいる12歳の息子のことを思った。アメリカ生まれで英語と日本語を話す日系二世の彼が、大人になった時にアンディさんのように「自分の武器」を明確に認識して、それを社会に役立てようと思ってくれるだろうか、と。そうあってほしい、と強く願いながら、アンディさんとの出会いに感謝したのだった。
© 2010 Keiko Fukuda