本日は、「短歌、俳句、川柳が詠む民主主義」と題して、最初に、「民衆の文学」として初期の作品を、つぎに「生活の記録、感情の詩」としてアメリカの生活を詠み込んだ作品を、最後に「アメリカ民主義 排日からリドレスまで」と題して、作品をいくつか取り上げます。
1. 民衆の文学
俳句や短歌、川柳は日本の「国民の文学」とでもいうべき文学形態で、一般の人々の生活に根ざしていました。当然、アメリカに行っても、生活の一部として作っていたものと考えられます。移民史などの史料を総合しますと、1904年ころには俳句や短歌の会がサンフランシスコ、オークランド、シアトル、ポートランドに生まれています。
サンフランシスコの日本語新聞であった『新世界』では、1906年から紙面がマイクロフィルムで残っています。その文芸欄のようなものを見ますと、下記の作品のようにバカビルという小さな村でも、日本人労働者が集まって同好会をつくり活動していたことがわかります。
ほたる火や 祭過ぎたる 宇治の里
(遊舟 『新世界』1906年7月29日 バカビル通信 懸賞募集俳句 天)
下の句の作者は1903年に渡米した下山逸蒼で、1910年代から30年代にかけてロサンゼルスやサンフランシスコを中心に活動した自由律の俳人です。多数のペンネームを用いて、童謡や短歌なども発表していたようです。
ロビン鳴く 耕地並木や 春浅し
(逸蒼 『逸蒼句稿』1904年1月)
下山の作品には、アメリカの生活が感じられるのですが、初期の作品の多くは、短歌も、俳句も下の作品のように、日本で作られたかのような作品でした。
明らけく治まる御代の影添へて 梅の小窓に初日さすなり
(河合とし子 『新世界』1907年1月元旦 懸賞短歌)
排日の熱はいか程強くとも 大和桜は咲きそろふらん
(ふで子 『新世界』1907年3月11日)
川柳は柳樽で、時事批評が最初に作られました。下の作品を初めとして初期の作品のほとんどは、今では新聞に歌や句が残っているだけです。
開国の 師匠や今は 鎖国論
(無名坊 『新世界』1907年11月8日)小村雨 移民外出 出来ぬなり
(七面堂 『新世界』1908年12月6日)
最近偶然見つかった歌集に、1909年に出版された『蔦廼舎歌集』(北米合衆国シアトル市日本美以教会)があります。下に引用しました。著者である蘆澤直作はシアトルの日本メソディスト教会で暮らしてようですが、この本はロサンゼルスの古本屋で偶然見つかりました。キリスト教信仰や望郷や尊皇の想いが詠われています。
おほ神のみ名をうたひて今日もまた 心やすくも暮しぬるかな
日の本の年のはじめの旭影 とつ国までもかヾやきにけり
降りしきる雪のいろにも故郷に おいぬる母の影をしぞおもふ
初期の俳句会には、オークランドの六雨会、フードリヴァーの風土会、短歌会には白線会、南詠会などもあるのですが、ほとんどの会の記録は今のところ新聞記事以外にはわかりません。シアトルの沙香会(さこうかいあるいは、しゃこうかい)については、沙香会による『俳句六年』(1912年)という本が盛岡市の先人記念館にあり、ここに6年間にわたる活動が記録されています。ちなみにこの本は、下山逸蒼の遺品が日本の遺族に送られ、保存されていたものです。下記の二句は、『俳句六年』に収録されていたものです。
陽炎の中に冷たし岩の鼻
(照洋 1907年2月)石切る鋸に垂す水の温む山
(雨翠 1912年2月)
ホトトギス派の俳句は、サンフランシスコの日米新聞の蝉蛙会(せんあかい)(古屋夢拙、重冨東離、寺田抜山)が1910年代に指導的立場にあったようですが、当初は下記の作品のように日本的な内容でした。
雨去って 一段高し 蝉の声
(抜山 1913年第一回句会 『蝉蛙会句集』1923年)峠茶屋冷やし饂飩や蝉の声
(五堂 1913年第一回句会 『蝉蛙会句集』1923年)
1922年にロサンゼルスに橘吟社が生まれ、田中柊林(しゅうりん)、常石芝青、桜井銀鳥、安田北湖(ほっこ)、藤岡細江が活躍し、蝉蛙会は衰えます。橘吟社は同人誌たちばな1926年創刊、橘吟社は現在も活動しています。たちばなは昨年で活動90年ということなります。戦前のたちばなは早稲田大学に数部あるだけで、その他の所在は不明です。シアトルではレニア吟社が今も活動しています。川尻杏雨、三宅太郎、小池晩人らが戦前の指導者でした。
2. 生活の記録、感情の詩
今まで述べたように、当初は日本的な作品が多かったのですが、やがて自分たちの生活や心情を詠み込むようになります。「生活の記録、感情の詩」は、清水其蜩(きちょう)という川柳の指導者の用いた言葉です。彼がジェローム収容所で、後進の指導のために口述した「鈴蛇」という小冊子には、彼の作句態度がよくあらわれています。
「真面目に生活を見詰め、率直にその感情を披瀝すれば
現代川柳が生まれる」
このような作句態度は、次の短歌にも見られます。日々の生活の一コマ、そのときの情感が詠み込まれています。
独り食ふターキ味なし妻子づれ 祝ふ雑煮のなつかしき哉
(齊月 『新世界』1917年1月1日)淋しさもはた苦しさも忘れたる やうに働く同胞かなし
(坂本正雄 『新世界』1926年1月17日)一日を働き終へて大きこの 靴をぬぐときのわれのうれしき
(田原紅人 『新世界』1927年3月27日)鞭打てど馬は動かず年老いし 父の額に玉なせり汗は
(伊勢田初江 『青雲』1930年)ひる餉とるひまもいそがし斯くてわれ ただに働きつひに老ふるか
(田中韋城 『華陽』1927年)
短歌では、ロサンゼルスに南詠会が1925年発足、一年後に『青雲』を、創立十周年記念で『南光』を刊行しました。シアトルでは華陽会が1925年発足し、『華陽』(1927年)を発行しましたが、1941年12月7日の歌会が最後でした。アイダホ州峯土香短歌会を経て、現在はシアトル短歌会が現在も活動中です。
俳句の方では、1910年代から1930年代には、下記の作品のように、下山逸蒼、直原敏平らの自由律が優勢でした。フレズノのバレー吟社、スタックトンのデルタ吟社、ロサンゼルスのレモン詩社、アゴスト社が活動します。
がたがたフォードに妻子つみ落ちゆく移民
(逸蒼 『新世界』1925年5月17日)享年みな若き移民の墓石一柱 供養の赤い花
(尾澤寧次 『新世界』1938年10月3日)青空へ枝がのび今日も二世の結婚がある
(松田碧沙明 『新世界』1936年12月21日)
川柳は吟社の設立は短歌や俳句よりも遅いのですが、新聞には柳樽や柳壇が断続的に掲載されていました。吟社としては、シアトルの北米川柳互選会が注目されます。この吟社は1929年以来、戦時中を除き現在まで活動を続けている最も長命な吟社です。『北米時事』にその活動記録が残っています。
アメリカと平和を祈り種を蒔き
(勝水 『北米時事』1940年6月20日)世界一の楽土に棘の住心地
(吾以知 『北米時事』1940年3月26日)住み憎く住んでアメリカ見切られず
(丘太郎 『北米時事』1938年7月23日)
ロサンゼルスでは、1938年に『加州毎日』新聞に川柳欄が設けられたことをきっかけに、つばめ吟社が生まれ、活動を続けていましたが、現在は活動を停止しています。その流れを人脈的にくむのが、羅府川柳とパイオニア川柳です。
*2013年7月4日から7日にかけて行われた全米日系人博物館による全米カンフェレンス『Speaking Up! Democracy, Justice, Dignity』での日本語セッション「一世の詩、一世の声 (Issei Poetry, Issei Voices)」のセッションでの発表原稿です。
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