https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/452/
組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)
(英語)年代によって収容所の印象は大きく違います。私のように当時高校生未満だった者には(収容所に)いい思い出があります。(収容所時代の同窓生たちとの)同窓会を見ればそれがよくわかります、1945年卒の同窓会が一番盛大で、今だに同窓会が開かれています。つまりこの代の人たちにはいい思い出がるので、みんなで集りたいという気持ちになるのでしょう。私の代にあたる1946年卒の同窓会になると、若干集まる人数が少なくなり、そして私の弟の代にあたる1947年卒はほとんど同窓会をやりません。恐らく(収容所にいた頃の彼らは)まだ小さ過ぎたからでしょう。 いずれにしても子供達は一緒に遊ぶ仲間が沢山いた、というのは事実です。私も常に遊んでいました。
でも高校生が分かれ目で、高校生以上の人たちになると事情は違います。収容所(に入れられたこと)のせいで仕事や勉学が中断されてしまい、苦しみと損害をうけたのは間違いないでしょう。学生は収容所に残っても本人達のためにはならないので、収容所を出てまたどこかの学校を探さなくてはなりませんでした。私の両親のように仕事をもっていた人達は仕事を失い、大変な苦労を強いられました。所有していたものを全て失い、小さな家に住み、自分達のキッチンやバスルームさえなかったのですから、さぞ大変だっただろうと思います。しかし冒頭でも申し上げたとおり、私はまだ子供だったので、あまりこうした苦労を感じたことはありませんでした。
日付: 2004年2月10日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: グウェン・ジェンセン
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1929年生まれのポール・テラサキ氏はカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の名誉教授です。組織移植研究の第一人者で、組織タイピング(適合性検査)や臓器移植について世界的に講演を行い続けています。1991年、『History of Transplantation: Thirty-five Recollections (移植の歴史:35の回顧録)』を編集しました。
また、彼と画家としても有名な妻ヒサコ夫人は、日米関係や日系アメリカ人コミュニティに強い関心を持っており、UCLAのアジア系アメリカ人研究センターへ基金を設立し、日系アメリカ人に関する体験や問題点などを研究するために留学してきた日本からの大学院留学生を対象に特別奨学金を提供しています。さらに、UCLAにおける日本研究・日米関係の分野の専門家を育てるため、優れた教育プログラムをサポートするポール・I・テラサキ基金を設けています。 (2004年2月10日)
一世と二世の一斉検挙(英語)
公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)
父に教えられた収容所の写真の重要性(英語)
写真家・ビジネスマン。
収容所の補償運動の達成と教育(英語)
(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。
真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)
作家(1934年生)
収容所での最初の印象 (英語)
甥との対話から生まれた小説 (英語)
出生地のもつ意義に気づいて (英語)
太鼓・尺八奏者(1944生)
日本との戦争に対する何ともいえない感情(英語)
カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)
収容所の中で才能を磨く (英語)
アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)
日本軍に包囲されたときのメリル・マラウダー部隊の状況(英語)
収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)
忠誠心の質問への返答(英語)
ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)
収容所でラリーが椅子をデザイン(英語)
カーデザイナー、ラリー・シノダの姉
ツールレイクからミニドカ収容所への移動(英語)