ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/7/18/crow-creek-settlement-1/

クロー・クリーク居住地 その1

クロー・クリーク居住地の位置

これは、私が子供たちに話して聞かせていた物語の一つで、私が探査会社の仕事をしていた頃の体験談です。私は、まだ若かった10代の頃にクロー・クリークの住民と遭遇したことを数年前に書きましたが、このセツルメント(居住地)については多くの謎が残ったままでした。そこで私は居住地について調べてみることにしました。その結果がこのエッセイです。ビル・中庄司さんと奥様のドリスさん、カプシカシングからオパサティカ地域の多くのみなさんの協力がなければ書き上げることはできませんでした。

記録され、公開されるべき居住地の体験談は他にもたくさんあるでしょう。あってほしいと私は願っています。最近ではこの地域の人々でさえ日系人排斥の歴史背景についてほとんど知らず、そのような事実があったことさえ把握していません。

私は、この物語が正当に描かれていればと思います。そして読者の皆さんに楽しんでいただけるよう願っています。何か間違い(誤字を含めて)がありましたら、その責任は私にあります。

* * * * *

私にはスワスティカにジョン・メレルと言う親友がいました。彼とはよく自分たちの父親と一緒に仕事で森へ出かけました。私たちの父親は1940年後半から50年代初め、ある探査会社のパートナー同士でした。その後、私の父はカナダ側の天然資源探査代表としてフリーポート硫黄会社(Freeport Sulphur Co.) に移り、ジョンの父ラリーはブリュース・アンド・ホワイト(Brews and White) に勤めました。

1952年の12月のとある長い週末、私は、ジョン、父のジャック・ニューマン、そしてカークランド湖からのダイアモンド・ドリラー達と共に、カプシカシングの西オパサティカの南にある土地に仕事で出かける機会がありました。父とドリラーと呼ばれる掘削機を動かす人達が機械を組み立てている間に、掘削区域の周りに碁盤目状に打たれた杭の位置を測定するのがジョンと私の仕事でした。

スワスティカからオパサティカまでは車で行き、オパサティカホテルに宿泊しました。ホテルといっても、数部屋のゲストルームのある飲み屋で、二階建ての旧式トイレがあり、今でもその匂いが鼻につきます。

早い朝食を終え、クロー・クリークに日が昇り始める頃、私たちはホテルを後にしました。とてもゆっくりとしたドライブでした。道路は凸凹で、新雪が沢山積もっていました。トラックが何度か故障し、一番苦労したのがリアー・スプリングが壊れてしまった時でした。十分な工具を持ち合わせていないドリラー達の修理の上手さにジョンと私は驚きました。キャンプに到着した時にはもう真っ暗になっていましたが、自分たちでテントを張る必要がなかったのはうれしい事でした。

キャンプの居住区は居心地が良く、おいしい食べものも沢山ありました。冬の野外での仕事で良いことの一つは肉が腐らない事でした。更に良い事には、ティーンエージャーの我々ですら簡単にできる仕事だったということです。そのため仕事の終わりが近づくのを感じると、つまらない思いがしました。 

最後の日、ジョンと私は、オパサティカまで歩いて帰りたいがどうだろうと父に聞いてみました。トラックに乗って帰っても、時間がかかり、苦労する事は分かっていました。父はホテルに部屋を用意してくれていたので、そこで皆と合流することができます。その日は曇っていましたが、そんなに寒くはありませんでした。歩くには遠い距離ですが、私たちには大いなる冒険になると思いました。

父は許可を出してくれました。とはいえ、我々も父達と一緒に帰った方が良いと思ったのに違いありません。父は、天候がいつ変わるか分からないことを忠告し、道から外れず、道草を食わない事を言い聞かせました。遅い昼食の後、我々は自分たちの作業着や道具をトラックに詰め込み、歩くのに必要なものだけを身につけて歩き始めました。雪靴を履いていたと記憶しています。その時はすでに雪は積もり、道には沢山の吹き溜まりが出来ていたので、雪靴なしでは歩けなかったでしょう。

初めは順調でした。一時間半でオパサティカまでの半分以上は歩いたと思います。突然、雪が降り始め、小雪がだんだんと大雪になり、ついには大粒の湿った雪になりました。風は勢いを増し、ほとんど水平に我々の体を打ち付け始めました。嵐の中をドライブしているようでした。時々、道がよく見えなくなり、目ではなく体で判断しなければなりませんでした。12月は日が落ちるのが早いので、すぐにでも暗闇の中、雪嵐の中を歩き続けなくてはならない事は目に見えていました。

我々は歩き続けました。道を踏み外していない事だけは確かでしたが、道から外れるのではないかと不安に駆られました。しかし、もといたキャンプ地まで引き返すなど、この時点ではもう問題外でした。

しばらくたってから、歩みはゆっくりとなり、全身すっかり雪で覆われてしまいました。ふと右側を見ると、道の東側に雪に埋もれた平屋の家々の窓から明かりが漏れているのに気付きました。オパサティカの南側の道路で見られる大きな農家とは似ても似つかない家々でした。

クロー・クリーク居住地 (居住地の学校より撮影)

家に行ってみようと決心しました。家に向かって歩き始めたところ、水のバケツを棒の左右に下げ肩に担いでいる小さな少年に出会いました。何処に住んでいるのか聞いた所、一件の家を指差しました。少年の後を追い、ドアを叩きました。

ドアが開き、中へ入った途端に目にしたのはなんと奇異な光景だったでしょうか?小さな部屋はコールマンランプで照らされ、天井から他の部屋と仕切るための毛布が2・3枚ぶら下がっていました。そこには東洋人・・・男、女、子供など、我々の人生で出会ったことがないほどたくさんの東洋人であふれていました。彼らが見たものは、我々二人ほどの衝撃はなかったものの、大きな驚きだったにちがいありません。見知らぬ、背の高い10代の西洋人が二人、頭から靴先まで湿った雪に覆われて、何処からとも無く現れたのですから。

一人の男の人が前に歩み出て、英語で我々二人に歓迎の言葉をかけてくれました。こんな晩に何処へ行くのかと尋ねられました。我々は、何処から来てどこへ行こうとしているのかを話しました。その男が、我々の話を集まっている人達に伝えると、驚きと安堵の声が起こりました。そしてここはオパサティカに近く、望めば電話でタクシーを呼んでホテルまで連れて行ってもらえると話してくれました。素晴らしい考えでした。お茶を勧めてくれましたが、今思い起こすと、断わったと思います。あまりにも予期せぬ事態に遭遇して、我々は困り果ててしまっていたからでした。

しかし好奇心に駆られた我々は、どういう人たちなのか、ここで何をしているのか尋ねました。世界第二次世界大戦勃発後、西海岸から移り住んだ日系カナダ人家族で、彼らはここで林業に従事していると話してくれました。

クロー・クリーク居住地の木こりたち

その後すぐ、我々はタクシーでそこを離れ、ホテルで風呂に入り暖かいベッドにもぐりこみました。どうしてあんなにも疎外された所で、それも戦後7年も経っているにも関わらず、彼等の家族がいまだにそこで暮らしているのか。我々二人は何回も何回も話し合いました。もちろん、日系人がブリティッシュ・コロンビア(BC)で仕事や財産を没収され、何年も戻る事を許されなかったという事は知っていましたが、なぜなのかが不思議でたまりませんでした。多分いつかはBCに戻って新しい生活を始めるために、木こりの仕事で得た収入を貯めていたのではないかと、その時は考えました。

* * * * *

一年位前のことです。ジョンと私は、長い間我々の心に残っていた疑問に答えを見つけようと決心しました。あの時のキャンプでの出会いから半世紀以上も経っていました。このキャンプが、今では「クロー・クリーク居住地」として知られる場所であることは分かっていました。

1940年代初めに起こった西海岸から日系カナダ人を排斥する動きについては本(フィクションやノンフィクション)やインターネットに沢山の資料があります。しかしそれらは概要、あるいは強制移動させられた西海岸の人々についてがほとんどです。オンタリオでの強制収容所やアングラーにある捕虜収容所についての簡単な記述はありました。仕事を見つけにオンタリオ目掛けて移住する沢山の人達に関する簡単な参考資料もありました。しかしクロー・クリーク居住地に関する参考資料は見つかりませんでした。

1947年の航空写真

調べ始めた頃に見つけた唯一の情報は航空写真でした。この写真は1947年に家々があったこと、そして1960年にはなくなっていたことを証明しています。これこそ我々の経験が故意に作られたものではない事を示す確固たる証拠でした。

強制退去後、収容所で暮らした日系カナダ人とも、我々の友人を介して、話すことが出来ました。しかし誰一人としてクロー・クリークのことを知っている人はいませんでした。日系カナダ人協会にも連絡を取りましたが、特別な情報を得ることはできませんでした。

クロー・クリークについて知る機会を得るためには、日系カナダ人であろうがなかろうが、その地区に今でも住んでいる人達、それを知っている人達を見つける必要がありました。ついに、そのような人を探し当てることができたのです。まずは、ミチ・井出さんがクロー・クリーク居住地に関する情報を探している学生あてに書いたという手紙のコピーを、カプスカシングのロン・モーレル博物館のジュリー・ラティマーさんから手に入れることが出来ました。井出さんは居住地で先生をしていて、その彼女の手紙には我々が捜し求めていた沢山の答えが載っていました。しかしそこにはさらに検索が必要な新しい疑問も書かれていました。残念ながら、井出さんは亡くなられていました。

彼女の手紙からこの居住地に住んだ事があって、未だにこの地域に住み続けている日系カナダ人がいるであろう事がわかりました。これがジョンに3万6千人を網羅するオンタリオ北東地区の電話帳を調べさせるきっかけとなったのです。その結果、日本人らしき名前を二つだけ見つけることができました。それも両方とも中庄司(なかしょうじ)でした。しかし、これこそが我々の調査の第二のそれも一番大きな転機をもたらしてくれたのです。物語の初めから終わりまでの一つの流れを、いやそれ以上に、クロー・クリーク居住地の歴史を探し当てる結果になったのです。

この成果はビル・中庄司さんにその多くを感謝しなければなりません。彼と妻のドリスが心良く差し出してくれた情報、彼が手を回してくれ我々が会うことが出来た地元の人達、特にアライン・ギンドンには感謝します。アラインは地元の歴史に造詣が深く、そのお陰で我々は貴重な情報やキャンプでの幅広い生活に接する事が出来ました。ビルとアラインはまた別の情報源も紹介してくれました。オポサティカ郡が作成した75周年記念の本、などです。この本はクロー・クリークに初めて入植した人たちや日系カナダ人のような新しい人達に対する大絶賛の本です。

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© 2016 George Tough

ブリティッシュコロンビア州 カナダ クロー・クリーク 日系カナダ人 カパスケーシング オンタリオ州 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所
執筆者について

ジョージ・タフさんは、カナダ各地で探査の仕事をし、高校教員、オンタリオ州天然資源省次官、政府やファースト・ネーション(カナダの先住民族)、企業への土地や資源関係のコンサルタントを務めた。結婚し3人の子供たちは独立し、現在2人の孫娘がいる。カナダ、オンタリオ州ピーターバラ在住。

(2016年7月 更新)

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