ディスカバー・ニッケイ

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収容所で始めたYMCA活動(英語)

(英語)4月27日のことでした。収容所が開いてすぐ、私はバスに乗り、サンフランシスコを離れました。収容所に到着し、真っ先に目についたのは、子供たちの走り回る姿でした。コミュニティプログラムなど、全ての枠組みが失われていました。何もありませんでした。私たちは皆、これからどこに住むことになるのか、次の食事はどこからか来るのか、心配していました。サンフランシスコから来た日系のYMCAの仲間にこう言いました。「子供たちのために何かしなければ」と。すると彼らも、「そうだな、何かしよう!」と言ってくれました。YMCAのメンバーは、必要なことは何でもやる人たちです。私たちはそれをYMCAとは呼ばずに活動を始めました。私は、「壁のない、スタッフのいない、ボランティアによるYMCA」と呼びました。必要なのはそれだけです。ボランティアの手とその精神です。私はそれを、YMCA精神の力、魔法と言っています。

私たちはすぐに行動を起こし、私は数日以内に収容所の責任者のところへ行き、こう言いました。「何本か電話をかけさせてもらえますか?もしこのまま何もしなければ、この子たちは問題行動を起こしますよ。子供たちは何かやることが必要です」。すると彼は、「そのとおりだ」と同意してくれました。何人かに電話すると、トラックいっぱい、車いっぱいのお下がりの道具類が収容所に届きました。趣味サークルや各種プログラム、講座や野球、ソフトボール、バスケ、その他道具があれば何でもやりました。サッカーも始めました。こうして私たちのプログラムはすぐに始まりました。

他の収容所にも同じ考え方が浸透し、この時から全米のYMCAが関わるようになり、YMCAのプログラムが始まりました。始まった頃はYMCAと呼ぶことはできませんでしたが、後にYMCAプログラムと呼んでもいいとのお墨付きを得ました。


第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2005年3月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フレッド・ヤイチオ・ホシヤマさんは6人兄弟の長男として、カリフォルニア州リビングストンのヤマトコロニーへ入植した日系一世の両親の元に生まれました。父親は、ホシヤマさんがまだ8歳の時に亡くなり、一家はその後も苦労しながら農業を続けましたが、結局農地を手放し、1929年にサンフランシスコに移り住みました。ホシヤマさんは、1941年にカリフォルニア大学バークレー校で文学士を取得しましたが、その後サンフランシスコのタンフォラン集合センターに送られ、1942年にはユタ州のトパーズ“戦争移住センター”に数千人の日系人と共に収容されました。ハワイ州真珠湾の米国海軍基地を攻撃した敵国人と同じ人種だというだけで、このような被害を受けました。

ホシヤマさんは、収容所にいながらも自身のライフワークとなるキリスト教青年会(YMCA)の活動を続け、収容所で強く求められていたレクリエーションや教育、親睦のためのプログラムの立ち上げに貢献しました。トパーズからの早期解放が認められ、マサチューセッツ州のスプリングフィールド大学で修士号を取得した後、ホノルルでYMCA若者プログラムのディレクターを務めました。その後、カリフォルニアで都市部の若者のためのプログラムに長年携わりました。また、1976年から83年には全米学生YMCA同盟(National Association of Student YMCAs)の立ち上げを支援しました。引退後は、経理の専門知識を生かし、複数の非営利団体の発展と維持に力を注ぎました。(2016年2月)

Grayce Ritsu Kaneda Uyehara
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グレース・ウエハラ

収容所の補償運動の達成と教育(英語)

(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。

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Wakako Nakamura Yamauchi
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ワカコ・ヤマウチ

真珠湾攻撃後のカリフォルニア州オーシャンサイドでの日系アメリカ人学生としての経験(英語)

アーティスト・劇作家。(1924 - 2018年)

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Frank Yamasaki
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フランク・ヤマサキ

ピュアラップ集合センターで失った青年期の能天気さ(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

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Frank Yamasaki
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フランク・ヤマサキ

ほこりだらけのミニドカ収容所の記憶(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

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Frank Yamasaki
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フランク・ヤマサキ

徴兵拒否の決意(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

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George Azumano
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ジョージ・アズマノ

真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)

アズマノトラベル創設者

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George Katsumi Yuzawa
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ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

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George Katsumi Yuzawa
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ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

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George Katsumi Yuzawa
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ジョージ・カツミ・ユザワ

戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

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George Katsumi Yuzawa
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ジョージ・カツミ・ユザワ

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

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Gene Akutsu
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ジーン・アクツ

徴兵反対者に対する日系コミュニティの反応(英語)

徴兵忌避者(1925年生)

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Gene Akutsu
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ジーン・アクツ

世論に影響を与えるメディアの役割(英語)

徴兵忌避者(1925年生)

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Gene Akutsu
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ジーン・アクツ

徴兵拒否により服役した刑務所での生活環境 (英語)

徴兵忌避者(1925年生)

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Gene Akutsu
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ジーン・アクツ

戦時中の徴兵拒否について子供たちへ伝えること (英語)

徴兵忌避者(1925年生)

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Gene Akutsu
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ジーン・アクツ

「国家への忠義に関する質問」に対する葛藤 (英語)

徴兵忌避者(1925年生)

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