甲子園春夏連覇を制した者だけに与えられる深紅の大優勝旗が、今年海を越え、初めて沖縄に渡った。甲子園史上6校目の偉業を、沖縄興南高校が遂に成し遂げたのである。那覇空港には5,000名が出迎え、沖縄住民が歓喜に酔いしれた。戦後65年、苦難の道を歩んで来た沖縄の人々が「一つの夢の実現」に一ページをしるし、足跡を残した明記すべき日であった。
沖縄興南高校の春夏甲子園制覇の興奮さめやらない9月上旬、同校から5人の選手が日本選抜代表としてアメリカを訪れた。日米親善高校野球に出場する興南の我喜屋優監督率いる日本選抜チームが31日にロサンゼルス入りした。
日米親善高校野球大会とは、日米インターナショナル・ハイスクール・ベースボール・ファンデーション、日米教育サポートセンターの共催で毎年行われている友好・親善試合である。夏の甲子園大会で最も活躍した選手の中から、日本高等学校野球連盟より選ばれた全日本選抜チームと米国選抜チームが対戦する。今年は、9月2、4、5、6日の4日間にわたってロサンゼルス市の隣接都市コンプトンのアーバン・ユース・アカデミー球場で行われた。
日本選抜チームは17人(一人病欠)、春夏を制した興南(沖縄)からは島袋洋奨投手、山川大輔捕手、真栄平大輝、国吉大陸、我如古盛次内野手の5名が選ばれていた。1校から5人も代表者が選抜されたのは史上最多という。
8月31日に同野球場で歓迎レセプションが開かれ、日米野球関係者約100人が招待された。選手はホストファミリーの家庭で家族の一員と同様の生活をし、メジャーリーグの試合観戦(9月1日にLAドジャース対フィラデルフィア・フィリーズ、6日にはLAエンジェルスとクリーブランド・インディアンズの試合)、日本総領事館公邸への表敬訪問、観光なども体験しながら、4日間の試合に挑んだ。
「日本高野連は親善と教育が目的とうたっているが、実際はメジャーのスカウトが大勢参加しており、選手の力量を測り、将来の大リーガーを模索する大事なイベントである」と、日米教育サポート・センター木下和孝会長は語った。
「親善野球大会は51年前にアメリカ本土で初めて開始された。19年前に松井秀喜選手が参加して以来大きな盛り上がりを見せている」と日本高野連副会長の内海紀雄さんが挨拶。「ロサンゼルスに足を踏み入れるのは30年ぶり、全日本代表としてキューバ遠征の途中に立ち寄った。すばらしい環境で試合ができるのを光栄に思う」と我喜屋優興南及び全日本監督が歓迎レセプションで語った。
レセプション前に日本人選手はフィールドで直ちに練習を行い、その後にアメリカ選手が練習をしていた。「アメリカ人選手は大きくて、たくましいが、日本勢は技で行く」と我如古盛次興南選手は胸をはった。
4日、アーバンユース・アカデミーとの第一試合を観戦した。その日、興南選手の活躍で全日本は快勝した。
試合終了後、私は思いがけない体験をした。1970から80年代にかけて、ドジャースとパドレスで19年間活躍、オールスターに10回選出、オールスターMVPに2回選出され、ナショナル・リーグMVPに輝いたスティーブ・ガービー元大リーガーと一緒に写真を撮る機会がもてたのだ。オールアメリカン、ミスター・クリーン、アイアンメン(鉄の男)などの愛称を持ち、1207試合連続出場で、メジャーリーグ史上第4位記録保持者として知られている。70年代後半にロン・セイ、ダスティー・ベイカー、ビル・ラッセル、デイビー・ロープスなどとドジャース黄金時代を築いたガービーさんは押しも押されぬ大スターであった。4日の始球式で試合開始のボールを投げた。彼の息子も試合に出場、9回裏で2ランホーマーを打った。
今彼は61歳、後髪も大分薄くなり、映画スターなみの二枚目イメージは遠く去ってしまった感はあるが、写真を撮ったときに私の肩に手をかけ、優しく微笑むガービーさんの気さくな志が忘れられない。少しうわずった声、ユーモアで誰にでも気軽に話しかける元大スターの面影は残っていると感じた。現在カリフォルニア州パームデザートに居を構え、「ガービー・コミュニケーションズ」と称するメディア情報の会社を持つ実業家として活躍している。
我々県人会員は「興南の偉業」を祝して、歓迎会を持つべきではないかと沖縄県人会比嘉朝儀会長に進言した。「そうしよう、あなたが世話役になってくれないか」と一つ返事が返ってきた。眞境名愛子芸能部長と3人が中心となって、準備に取り掛かった。おかげで当日の参加者は150人、県人会館収容オーバーで外にテーブルを設定した。メディアも新聞、テレビを含め6社8人が取材にきた。参加者に充分な食事をとエナジック社、上原旅行社などから金一封、藤本節子さんから果物や花などの寄贈があり、多くのボランティアの協力で歓迎会は成功した。
その模様を琉球新報に記事として掲載した。更に「その記事が共同通信社と全国の新聞社47社で運営している『47NEWS』サイトでも、当銘貞夫北米通信員の署名入りで発信されています。私たちとしても誇らしい気持ちです」と琉球新報社高嶺朝一前社長がメールで知らせてきた。
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全日本代表の我喜屋優監督との出会いが印象深く残った。あるときは大胆で果敢に攻め、別の面でのきめの細かさ、鍛錬された選手の育成、チームワークの大切さ、選手の信頼感など万全の野球を見た。ガービーさんと我喜屋監督に共通性があるとすれば、それは、野球を愛し、野球で名を上げ、人間愛に満ち溢れた人としての人間観であろう。
戦後65年沖縄県民が夢見た「一つの偉業の達成」に、私もアメリカに住む一県系人として幸せな瞬間に酔いしれ、感涙にむせんだ一時であった。
全日程を通しパームスプリングス選抜との練習試合も含めて全日本が3勝1敗とオールアメリカンをくだした。
© 2010 Sadao Tome