>>その1
2.『鉄柵』の創刊と目的
1943年の晩秋、3人の帰米青年が毎晩のように加川文一の家に集まっていた。彼らはグラナダ収容所から来た山城正雄と野沢襄二、ポストンからの河合一夫であった。お互いにロサンジェルス市立ポリテクニック・ハイスクールを卒業した友達同士で、文学という共通の趣味で結びついていた。その頃は忠誠者と不忠誠者の交換がほぼ終了し、次第に過激な親日派が勢力を伸ばし始めており、3人は不忠誠を選択したものの、所内の雰囲気に馴染めなかった。過激な帰米青年たちの運動に巻き込まれたくないと感じた3人は独身で生活の心配もなく、あり余る時間を使って何ができるかを模索していた。加川と文学談義を重ねるうちに、文学誌を発行する話がまとまった。
加川は14歳で渡米し、カリフォルニア州パロアルトで父とともに農業に従事するかたわら独学で英語と詩を学び、1930年に英詩集Hidden Flameを出版した。当時、英詩を書く一世はごく少数で、ヨネ・ノグチの後継者として注目を浴びた。その後、加川は『收穫』の発刊にも大きな役割を果たした(『收穫』については『日系アメリカ文学雑誌集成(1)』を参照)。加川は喜んで文学青年たちの相談にのり、文学同人会を作ることに賛同した。加川はかつて『收穫』時代に内部の人間関係の悪化から、リーダーの役割を果たせなかったのを残念に思っていたにちがいない。収容所という好ましくない状況ではあったが、もう一度若い文学者を育てる機会が訪れたと喜んだようである。
雑誌を発行するには監理当局の許可を得なければならない。とくに当局からトラブルメーカーの烙印を押されている帰米二世が集って日本語の雑誌を発行するといえば、そう簡単に許可が下りるわけはなかった。3人は当然、加川文一を代表にすべきだと考えた。しかし加川は呼び寄せ一世(父が先に移民として渡米、のちに呼び寄せられた子)で市民権を持たなかったので、敵性外国人であった。加川に迷惑がかかることを恐れ、市民権を持つ3人が編集責任者となった。加川は3人の気持ちを理解し、顧問という形で参加した。
物資の豊富なアメリカでも戦争中であるから、大量の紙の入手は困難であった。たとえ許可が下りても謄写版の鉄筆担当者、紙、印刷手段などを確保しなければならなかった。創刊号から3号までの鉄筆を担当したのは国民学校教師であった河合の教え子の大城真砂子である。彼女は純二世(帰米二世と区別するために、アメリカのみで教育を受けた二世をこう呼ぶ)にしてはめずらしく日本語の読み書きも堪能で、達筆であった。たぶん大城は河合の担当するクラスの優等生であったのだろう。創刊号に『クオレ』の感想文も載せている。のちに鉄筆は加屋良晴、宮迫宗和などが担当した。
紙は野沢が奔走して売店のマネージャーに頼んで手に入れた。3人はまず所内の日本語新聞『鶴嶺湖事報』で雑誌の創刊を知らせ、原稿を募集した。集った原稿を注意深く英訳し、監理当局を刺激する表現は極力避けるよう自己規制をした結果、許可が下りたという。3人とも雑誌の発行は初めてだったため試行錯誤の連続で、発行されるまでに4ヶ月を要したという。創刊号の編集はおもに野沢が担当した。実際に雑誌が世に出たのは3月であった。正確な日付は不明である。
『鉄柵』の目的は創刊号の加川文一による「発刊の辞」のなかに書かれている。彼は強制収容所という劣悪な環境のなかでも日本人はその文化を見失っていないこと、戦後の新生活に向けて準備をしなければならないことをあげ、そのあかしとして文芸誌を発行すると述べている。第2号の「巻頭言」には、トゥーリレイクは日本へ帰る途中の「ホテル」であり、その後「北米移民の幕」を閉じるとあって、日本帰還が明言されている。収容所を「帰国後の生活力の養成所」であるとして、そのために思索し、創作する。この雑誌の目的はその発表の場を提供することであった。そしてその創作は質の高いものでなければならない。同人の目標は、戦後に発行されたなかでもっとも充実した文学誌『收穫』であり、努力してこれを凌ぐ文学誌を作りたいというのが希望であった。第2号の編集後記には「移民文学史の立派な最後を飾りたい」とあるが、編集者たちには移民文学もこれで終わり、継承する者はいないのだという悲壮感が漂っている。彼らは帰国の日を待つ間に作品を書くことに専念して、文学を通じて日本人(日系人)が文化を喪失していないと主張したかったのである。
文学誌という性格上、作品は慎重に審査された。第2号には「創刊号を語る」という座談会があり、3人の編集者のほか加川文一・(桐田)しづ夫妻に泊、矢尾を加えた7人が、創刊号の作品批評を行っている。作品の評価が公表されたのはこれが最初で最後になったが、毎号批評会が行われたようである。同じ号の編集後記には、たくさんの原稿が集まったが、基準に達していないものは断ったと書かれていて、かなりきびしい審査が行なわれたことがわかる。
創刊号は約800部発行され、所内のキャンテーン(協同組合形式の売店)で25セントで販売された。戦争勃発以来日本語の雑誌は輸入されていなかったため、人びとは日本語に飢えていた。発行と同時に飛ぶように売れて、他の収容所からも注文が殺到した。各収容所では新聞が発行されていたがいずれも英字新聞が中心で、日本語新聞はあくまでも翻訳という役割であった。日本語で生活している人びとはそれをもの足りないと感じ、収容所のさまざまな問題や小説を日本語で読みたいと思っていたのである。
順調な売れ行きにほっとした編集者は、第2号はページ数を増やして特別号とした。発行部数は号を重ねるごとに増え、第6号の新年特大号は140ページで1,200部以上発行され、35セントで販売された。平均して毎号1,000部が発行された。創刊号を発売したとき、編集者たちは売れ行きを気にして、そっとキャンテ―ンをのぞいたという。売り上げ金は同人に分配せず、経費を差し引いた残りをすべて貯めて次の号の資金にした。同人はときどき、その資金のなかからチキンを一羽買う。それを鍋にいれて部屋の暖房用ストーヴの上に乗せてスープにし、それを飲みながら文学を論じたという。お互いの作品を批評し合って、あまり酷評されたときは蒲団をかぶって寝てしまう。そしてもう文学はやめたとふさぎこむが、何日かたつとまた気をとりなおして書き始めるという状況の繰り返しで、このようななかから帰米二世たちの作品が生まれたのである。『鉄柵』はこのような青年たちの情熱に支えられ、加川という指導者を得て、次第に文学誌として充実していった。しかし1945年7月21日、第9号が発行された後、日米戦争は日本の敗戦で終わった。『鉄柵』第10号はついに発行されなかった。
* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。
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