祖母は大正2年の生まれで、戦前にはハワイ移民を希望したらしい。幼いころに父親を亡くし、兄2人、姉1人の末っ子だったからだとか、活発で大変進歩的な性格だったからだとか、私は両親や叔母たちと祖母について話すことがよくある。祖母の生家は愛媛県松山市の比較的豊かな家であり、移民をしないでも食べていけるからと周りはみな強く反対したため、結局その野望は果たせぬまま終わったようである。
瀬戸内の海岸から彼方に目をやれば山口県の周防大島の影が横たわっている。この島からは大勢の日本人がハワイへ渡って行った。若かりし頃の祖母は、ハワイを目指す人たちの話をどこかで聞いてきたのだろうか。野望が実現していたら、この私は今どこで何をしているのだろうか。
孫の私は小学生の頃からハワイに強い憧れを抱き、とりわけ加藤秀俊の『ホノルルの街かどから』(中公文庫)を松山市内の書店で手に入れてからは、中学校の勉強そっちのけでハワイの魅力に浸り続けたのであった。国内のラジオ局によって1981年に生中継されたKZOO(現地ホノルルの日本語放送局)の録音テープが今でも手元にある。
1996年に東京学芸大学に職を得て以降、教育学の研究テーマを解明するために、ハワイの公立および私立の小学校で観察調査を続けている。ハワイ大学の教職大学院の実習校だったK小学校を訪ねることになり、それをきっかけとして今日まで20年近く継続して訪問している。2001年から2002年にかけては1年弱、2008年には4ヶ月弱の間滞在して、子どもたちと一緒に授業を受けながらじっくりと学校全体を観察する機会をもつことができた。この時の記録は、博士論文とそれを公刊した拙著『多文化教育とハワイの異文化理解学習―「公正さ」はどう認識されるか』(ナカニシヤ出版)にまとめてある。
ハワイの教育界では日系人が多く活躍しているので、自然と日系人の知り合いが増えてゆく。2001年に長く滞在した時には、観察させてもらっていた先生に、「知り合いになっておくべき人がいる」と学校のカフェテリアのマネージャーのMさんを紹介された。妻のLさんも隣の学区の小学校で同じ職にあった。二人とも日系三世である。この夫妻によって、私は日系社会に自然な形で迎え入れられるという素晴らしい幸運に恵まれることになった。
二人にどこに連れられて行っても、「Mの小学校で観察をしているの」と紹介されたら、それだけで仲間に入れてもらえた。次に会った時にこちらが名前を覚えていなくても、あちらがしっかりと覚えてくれているのである。最初は「小学校に通い続けている奇妙な日本人」と珍しがられていたが、そのうちに「東京に帰ることはあるのか」と聞かれることが多くなっていった。「東京に帰らなくていいのか」と尋ねてくる友人は冗談を言っているだけなのだろうと思うが。
12回の機会をいただいたこのエッセイでは、二人から学んだり教わったりしたことを交えながら、ハワイの日系社会や生活の諸相について書き留めてみたい。
先日、このエッセイを書くことについてMさんとLさんに話してみた。Mさんはすかさず、「ハワイの日系人は多様だぞ。『ハワイの日系人は』とひとくくりにはできないよ」と、内容の本質について鋭いコメントをくれた。Lさんは、「Nikkei?それはなあに?日系人のこと?ジャパニーズとはどう違うの?」と、”Nikkei”という単語について全く知らないようであった。
このように、アメリカ本土の日系人とは異なるハワイの日系人、しかしながら「ハワイの日系人」というように一般化することができないテーマをここで取り上げる。それはすべて私個人の視点から捉えたものであり、私個人の経験の中から取り出されたものである。
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