https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1539/
(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。
ぼくが日本に来て間もない頃、日本語があまり分からないときは、まあ、差別的なことは受けてたと思いますね。まあ、ただそれはぼくが外国人だから、ブラジル人だからっていうことなのかどうかは、ちょっとぼくも分からないところがあって、よく、やっぱり周りの子達に「もうブラジルに帰れ」とか言われたこともあれば、学校に行ったら物がなんか無くなってたりとか、なかなか周りの子達となじめない時期はありましたけれども。ただそれは日本のことをちゃんとやっぱり理解できていなかった自分にも問題はあったなと思ってて、そこをちゃんと分かっていたら、きっとその方向には行かなかったんだろうなとは思っているところもあるんですよね。
なので、それがどこまでやっぱりその差別的なこととして、やっぱりそれは、取れるものかどうかというのが、自分の中でも分からないところがあって、言葉を理解していくに連れて、友達も増えていけば、やっぱり、ぼくのことを嫌がっていた人たちも仲良くしてくれたので、まあその点では、ま、コミュニケーション不足っていうところで起きちゃった問題だったかもしれないなとは思っていますけれどもね。なので、日本語を習得することでその後…何でしょう、差別的なことを感じたことはないかもしれないですね。
日付: 2016年10月18日
場所: 日本、群馬県
インタビュアー: 小嶋 茂
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1979年1月、サンパウロに生まれる。熊本出身の祖父母を持つ三世で、日系人の多いリベルダージ近くモンチ・ケメル地域で育つ。1989年、デカセギとして来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住。以来、群馬県大泉町で暮らす。移住当初は、言葉の壁に悩んでいたが、日本語を学ぶにつれ友達も増え、今では日本語を活かしながらグラフィックデザイナーとしてブラジル人コミュニティをサポートしている。2009年に独立し、デザイン事務所経営。大泉町を紹介するフリーペーパーを発行。大泉町をブラジルタウンにする夢をもち尽力中。(2017年8月)
子供の頃から父の通訳を務める
サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)
戦時中に厳しく規制された外国語教育