ディスカバー・ニッケイ

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日本語学校 (英語)

(英語) 日本語学校には毎週土曜日の午前中、3、4時間通っていました。

I*: 日本語学校はどのような所で、誰がクラスを教えていましたか?

工藤さんという夫妻が教えていましたね。今思えば、学校へは遊びに行っていたようなものでした。両親に行くように言われて、だた単にそれに従って通っていただけです。あまり多くは学ばなかったですね。

I: 学校では何をしていましたか?

日本語の勉強ですよ。書いたり話したりね。

I: ええ。学校ってそういうことをする場ですからね。でも本当は、何をしに行っていたのですか?(笑)

(笑)遊びに行っていたんですよ。

* “I”:インタビュワー(メアリー・イトウ)


教育 日本語学校 言語 語学学校

日付: 2005年3月23日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: マリー・イトウ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト日系文化会館

語り手のプロフィール

ミツオ(ミツ)・イトウ氏は二世の日系カナダ人男性。1924年8月20日カナダのブリティッシュコロンビア州ミッションに生まれました。ミッションで生まれ育った彼は、家の農場を手伝いながら学校へ通っていましたが、製材工場や砂糖大根農場で働くのをきっかけに家を出ます。戦後は日本へ移住し、(日本へ駐屯していた)英国軍隊で通訳として働き、その後結婚しました。1950年代にトロントへ戻り、二人の息子を育てました。現在はトロントの日系カナダ人のコミュニティーに積極的に活動し、慈善事業にも従事しています。(2005年3月23日)

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

Sumiko Kozawa
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Susumu “Sus” Ito
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日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

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