https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1174/
一世医師の娘(1928-2016年)
(英語) 当時の私は、人の話し方の違いに気が付きませんでした。誰かが何か言うのを聞いて、話し方に違いがあることを知るようになったわけですが、それは確か戦後だったと思います。でも、当時(戦前)の私は、階級や立場と、方言の関係性を関知していませんでした。私の両親は、そういったことを私に言ったりしませんでしたので、気が付かなかったのです。でも、そうですね。たぶん私の父は、粗野な話し方というか、無教養というか、田舎の人たちが仲間内で話す言葉ですね、を使って彼らと会話するのが好きだったのだと思います。とにかくまあ、そういった類の言葉は日本人同士でも話されていたわけで、父は彼ら独特の言い回しを使って、診療所でもリラックスできるように配慮していました。父がそんな風な話し方をしていると、私は、「あ、今来ているのはあの人だな。」などとわかるようになりました。鼻にかかったような調子の声だったり、声色などの特徴で判断できました。そういう言葉遣いで交わされる会話は、聞いていて面白かったですよ。それに、私の父はささやき声で話す人ではなかったですからね。いつも大声で、ずけずけと物を言う感じでした。
I*: お父様がそのような話し方をされていたのは、単に患者さんたちをリラックスさせるためだと思ったのですが?
ええ、そうですね。父は医者でしたが、医師になることができたからそうなったというだけで、職種によって他の人に対して高慢になることを、父は良しとしませんでした。
*"I" はインタビュア(トム・イケダ)
日付: 2009年9月21日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: トム・イケダ、マルサ・ナカガワ
提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.
フランセス・ミドリ・タシロ・カジさんは、1928年4月30日生まれの日系二世です。カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれ、ロサンゼルス郊外のガーデナで育ちました。彼女の父は、ボイル・ハイツ地区で医師として重要な役割を担っていました。第二次大戦中はアリゾナ州ポストンの強制収容所に収容され、出所後、一家はテンサイ農場で働くためコロラドに移り住みました。その後一家はロサンゼルスに戻り、彼女の父は再び医師として仕事を再開しました。フランセスは、2016年に88歳で亡くなりました。(2020年4月)
提供された腎臓をレシピエントへ輸送するために必要な処置(英語)
組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)
移植後の患者の経過を調べるための登録システムを作成(英語)
組織タイピング(適合性検査)と血液検査を使っての実父確定検査(英語)
HLA(組織適合抗原)タイプと移植史に関する本(英語)
最も重要な功績としてマイクロテストの開発 (英語)
移植成功率を高めるために必要な継続的な努力(英語)
海外のVIP患者を担当(英語)
三世、心臓血管外科医(1925年生)
心臓外科手術の技術革新(英語)
子供の外科手術に対する達成感(英語)
小児患者がプロのバレーボール選手に(英語)
サンタ・アニタ強制収容所医療チームへの参加 (英語)
南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)
日本人病院への思い出 (英語・日本語)
羅府新報創設者の娘(1908年生)
日本人病院の閉鎖 (英語・日本語)
日本人病院と両親 (英語)
一世医師の娘
父との思い出(英語)