ディスカバー・ニッケイ

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ミズーリ州でのビジネス

カリフォルニアと比べてね、生活さえやっていければ住みやすいです。あそこの方がずっと住みやすいです。家なんかでもここの3分の1か5分の1ぐらいの値段ですよ。それでね、私の場合はアメリカでは請負い、コントラクト(契約)はできないから、働くんで、アメリカのことも習うんで、溶接の仕方は知っていたから、溶接屋じゃないんですよ、日本では。ないんだけども若い時にやっているから、腕はあるから、溶接屋で weldingで、welding jobをね、そこにいる間に1年で6ヶ所、会社を変えて見て歩いたんですよ。

ところがミズーリていうのはね、人口、家がまばらですからあんまり来ないんです。一回やったんですよ。6ヶ所勤めて歩いていて、見て歩いて、それでその頃は2ドル60セントでしたよ。Minimum wage(最低賃金)がね。で、minimum wageで使うってわけです、たいてい。1週間か2週間するとチェックくれるじゃないですか。そうすると8ドルか9ドルになっているんだよね。なんか間違えているよと言うとね、「いや、youはいいよ。これでいいんだよ。」とかね、こんなんやっているわけですよ。あっちはこうやっておけばまだいるんだろうと思ってね。ところがこっちは見にいってんだから、2週間とか3週間とかでね、すぐ辞めて次のところに行くでしょ。そういうようにやっていって6ヶ所見て歩いていって、それで、じゃ(自分で)できるかなと思ってやってみたわけ。そしたら大通りじゃなかったのですけれども、6ヶ月やっていてお客2人しか来ませんでした。ちっちゃい仕事がね。だからね、そういうのでね、やっていけないのですよ。


ビジネス 経済学 世代 移民 移住 (immigration) 一世 日本 カンザスシティー 経営 移住 (migration) ミズーリ州 戦後 新一世 アメリカ合衆国 溶接 第二次世界大戦

日付: 2016年7月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 西村陽子、渡辺美津重

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1936年8月、宮城県桃生郡小野村(現在の東松島市)で半農半漁をする両親のもとに生まれる。高校卒業後すぐに横浜へ移り住み、配管工になり、主に発電所の建設などにの仕事に携わった。1961年、25歳の時に兄とともに発電所の請負会社「河北産業」を立ち上げ成功するが、兄とのいさかいから会社を辞め独立。1975年、横浜の市長選に出馬するが落選、その後アメリカへ移住を決める。グリーンカードを取得し、ミズーリ州のカンサスシティへ娘二人と妻を連れ家族で移住するが、1年半後に日本へ帰国した。しかし、娘が日本の生活になじめず、その10か月後、再び家族でアメリカへ戻ることを決意。1978年、ロサンゼルスへ家族とともに再び渡米。以来、ロサンゼルス郡モンロビア市に住み、隣接するボールドウィンパークで溶接業(AAM Welding Company)を営んでいる。(2017年10月)

Harunori Oda
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ハルノリ・オダ

事業の拡大(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

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Harunori Oda
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ハルノリ・オダ

人生哲学(英語)

新一世実業家 (1927-2016年)

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Jimmy Ko Fukuhara
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ジミー・コウ・フクハラ

家族経営の種苗会社(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

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Jimmy Ko Fukuhara
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ジミー・コウ・フクハラ

除隊と種苗業の再開(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

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Antonio Shinkiti Shikota
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アントニオ・シンキチ・シコタ

工場労働者から自分のビジネスを持つまでの道のり(ポルトガル語)

日本でブラジルの商品店を営む日系ブラジル人(1962年生)

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Akira Takashio
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高塩 明

ボーディングハウスでの荒れた生活

新一世、居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」の社長

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Tom Yuki
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トム・ユキ

第二次大戦中は父のビジネスパートナーが農業ビジネスを管理した(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

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