https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/390/
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
(英語) あの頃、私はとても忘れることができない経験をしました。ある日メッセンジャーが私のところに来て誰かが面会に来ていると言いました。日本人ではなく外からの人だと。私は誰だろうと興味深々でした。ノーム・ピーターソンかな、トニーかな、それとも・・・でもそこにいたのは私の先生でした。私達は握手をして歩き出しました。
先生は黙っていて、そして「どこか座って話ができるところはありますか?」と言いました。ですから私は「もちろん」と言い(競馬場の)特別観覧席の上の方へ行きました。今でもその観覧席はあります。私は以前ガールフレンドとそこへ一緒に行った事がありましたが、行ってすぐそこの雰囲気が変わっていることに気づきました。突然目の前に集合センターの全景が広がりました。そこにいくつも連なったバラックがあるなんて夢にも思いませんでした。ある意味衝撃的な光景でした。なぜかというと、他の場所では全然・・・私達はいつも地上レベルにいるので(全体が見えません)、観覧席へ上って見ると突然いくつも連なったバラックが見えたのです。(この施設は)競馬を行うためにこの地域に作られました。
そして先生は・・・先生は第2次世界大戦中の先生の経験を私に話してくれました。先生はドイツ系で先生の父も拘留されたそうです。ですから先生も似たような経験をしたと。そして先生はこの様な事が起きるなんて汚く腐り果てた恥だと言っていました。私はそこで初めて自分の身に何が起きているのか分かったのです。それは私に大変なインパクトを与えました。ほんの少し前までは楽天的で何の気苦労もなかったのですから。
日付: 1997年4月18日
場所: 米国、ワシントン州
インタビュアー: ロリ・ホシノ、スティーブン・フギタ
提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.
フランク・ヤマサキ氏は1923年ワシントン州シアトルで生まれた二世男性です。戦前の子供時代はシアトルのサウスパークとベルタウン地域で過ごしました。ワシントン州ピュヤラップ集合センターに収容された後、アイダホ州ミニドカ収容所へ送られました。しかし、徴兵を拒否したためワシントン州マクニール島の連邦刑務所へ収監されました。戦後はシアトルへ再移住しました。
*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。
真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
父からではなく歴史の本を通して学んだ収容所(英語)
『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長
マンザナー収容所でのスケボー体験(英語)
日系人収容所に対する家族の見識(英語)
ミュージシャン、プロデューサー、アーティスト(1977年生)
強制収容所での思い出(英語)
ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。
収容所での最初の印象 (英語)
作家(1934年生)
子供の視点で見る収容所の非日系人(英語)
恥ずかしくて話せなかった収容所の体験 (英語)
甥との対話から生まれた小説 (英語)
後に続く世代のために残す家族の記録 (英語)
収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)
戦中は隣人にホテルビジネスを預け収容所へ (英語)
日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)
日本とアメリカでの教え方の違い(英語)
別々に収容された家族(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
囚人のように思えた収容所生活(英語)