https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/425/
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
(英語)アメリカもカナダも日本が...(戦争に負けることを) 知っていたんですよね。そして政府は、もしカナダに住み続けたいならそうなる前にカナダ東部へ移住するように、それか日本へ帰るのならタシュメに留まるように、と言ってきました。タシュメに収容所されていた家族の中で、東部への移住を選んだのは私達が最初でした。 それで移動の日、その日はドイツ人が…。私達は電車の中で、もし兵隊に見られたら、と思うと怖くて仕方ありませんでした。ボブは「とにかく黙ってなさい。何を言われてもとにかく静かにして、話しかけてはいけない」と言いました。でもね、何の問題も起こりませんでした。周りの人達は私達がインディアンだと思っていたようですよ。(笑い)
I: その時、政府の負担で日本へ帰ることもできた訳ですよね、それでも東部へ移住することを選んだのはどうしてですか?
そうですね、義理の父は日本に帰りたがっていました。家族の中では一番の年配者でしたからね。でも、ミヨコのように日本語と英語の両方を話す子もいましたけど、でも(日本語を話さない)若い世代のことを考えると心配で、私は「どうしてこの子達を日本に連れて行こうなんて事が言えるの?」って言ってましたね。やはり日本には行かなくて良かったですよ。後から聞いた話ですが、日本には食べるものがなくて、義理の父のように家長であっても(十分に食べられませんでしたから)。それにお金もありませんでした。もし日本へ持っていくお金がたくさんあったとしたら、それはまた別の話ですよ。でも誰があの時代、そんなお金を持っていたでしょう?私達は自分達の家からも立ち退かせられている状態でしたし、移住は賢明でしたよ。でもトロントに留まることは許されていなかったので、ウィンザーまで行って農業に従事しなければなりませんでした。農作業をしたことはなかったですし、農場に行ってもどうすればいいかわかりませんでした。だから幼いユキとココを、(子供の為の)施設のようなところに行かせていました。
*“I”はインタビューワー(ピーター・ワカヤマ)
日付: 2005年2月14日
場所: カナダ、トロント
インタビュアー: ピーター・ワカヤマ
提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館
シズコ・カドグチさんは二世の日系カナダ人女性。1920年9月29日にカナダのブリティッシュコロンビア州ポート・ムーディに生まれました。1930年に両親とともに日本へ移住し、日本で教育を受けました。カナダへは1940年に帰国しました。結婚後まもなくして第2次大戦勃発し、ヘースティングス・パーク、カナダの内陸タシュメへと強制移住させられました。タシュメを出た後は、トロントへ戻ります。彼女の夫はトロントの日本領事館で働いており、2人の子供を養子として迎えました。池坊に携わるようになり、その後は日本のフラワーアレンジメント芸術「生け花」を勉強するために日本を何度か訪問しました。また、彼女の夫とともにトロントにおける日系文化会館の設立(1950年代)にも貢献しました。 (2005年2月15日)
*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。
ペルーから米国へ強制連行(英語)
クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)
フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)
米国在住の日系コロンビア人(1974年生)
フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)
クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)
クリスタルシティでの最初の食事(英語)
妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった
クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)
父親の影響
(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士