https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/811/
負け組みの主要メンバー
私にとりましてこの戦争は、大きな私の人生の、なんて言いますか、企画的な出来事でありました。8月15日の終戦、ご詔勅が発表されまして、そしてそれから後、日本のコロニア、日系コロニアで大きな問題が起こりました。で、中村大尉・・・少尉ですか、テネンチ中村っていうのがおりまして、私の事務所に飛び込んできましてね。大変なことが起こる。で、ある一部の人たちが、この群れを作って、そして日本が勝ったというんで、日の丸を立てて、そして凱旋行列をするという噂があるが、大変なことになると言ってきましたので、これは大変だと。なんとか食い止めなくちゃいかんなというんでですね。そしてあの宮越さん、これは海興のあれです、主任の。宮越さんのお宅へ飛んでいきまして、大変な問題になりますから何とか手を打たなくっちゃいけませんねというんでですね。そしてそこであの、日本敗戦認識運動と言うようなものをですね、私始めたんですね。
それでもう、脇山大佐がだいたい問題になってくるわけですね。あの人が確かにもう、担ぐ人、彼を担ぎ上げるに相違ない。それを私が責任を持って脇山さん、大佐には一つこの認識運動に名を連ねていただきますと言ってですね、そして脇山大佐のところへ行きましてですね、私が話しましたですね。脇山大佐は涙をこぼしてあれしましたけどもね。承諾いたしまして、そしてそれに名前を連ねてくれました。
ところがすぐに、彼は撃ち殺されてしまったんですね。私がそういう、なんていいますかねぇ・・・若い、年の若い、若かったと言うんでしょうかね。とにかく前後も考えないで大変な問題だと思って始めた運動が、非常なもう、臣道連盟というような問題を起こしましてですね。多くの人が殺されました。私がその、大体狙われたNo.1だったんですけども、私は一緒に生活をしておりました苦学生たちの人助けによって難を逃れることができました。
日付:
場所: ブラジル
提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.
マサオ・キノシタ氏は、第1次大戦中、サントス港から耕地に入殖しました。他の日本人移民と共にサンパウロのコーヒー農園で働き、さらには殖民地開拓のいったんも担いました。慣れない土地で苦しい現実にさらされ、また学業に専念したい一心で、2回ほど植民地から逃げ出しますが、失敗。耕地へ戻されました。数年後、サンパウロ市で学校に通う機会にめぐまれ上京。仕事をしながら、学校にて法学を学びました。第2次大戦後は、負け組みの中心人物として、日本の敗戦をブラジルの日本人コミュニティに認識させようと運動を展開し、臣道連盟と対立しました。(2007年6月22日)
日本人の母から見た日系人収容所
岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。
ブラジル社会に恩返し-不足のテクニコを育成
JACTOグループ創設者 (1911-2010)
デカセギに来ていた父に呼び寄せられ日本へ移住
(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。
日本に移住して苦労したこと
アメリカへの揺るがぬ想いと日本への共感(英語)
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
世界を見るためにブラジルへ
笠戸丸移民
耕地での経験
日本人初の運転手
先輩に触発されブラジル移民を決意
一世教育者(1911年生)
ブラジルでの日本語教育
ブラジルでの50数年間を振り返って思うこと
父の第二次世界大戦への出兵(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
収容所からアップランドへの引っ越し(英語)
フィリピン・ダバオの幼稚園(英語)
フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)
戦後日本へ送還(英語)