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メチェのおばの家に行く
日本人の珍客・私がいるのを見つけたメチェは、彼女のおばの家に招待してくれた。彼女の実家は北部ピウラにあるのだが、おばの家はリマにある。
閑静な住宅街に建つ1軒の家がそれだった。外観はペルーのほかの家とほとんど変わらない。メチェは大学を出た後MBAの資格をとったという高学歴の持ち主で、現在は大学で働いている。そしてこの家の構えもペルーでは恵まれた方に入ることを考え合わせれば、日系人がペルーである程度の成功をおさめていることが理解できる。
家の中に通されても、とくに日本的な感じはない。しかしメチェのおばの家族は、みな日本人にかなり近い顔をしている。何世代かが一緒に暮らしているので、人が多くて誰が誰だか分からない。
「あのおじさん、本当に日本人みたい」
私がメチェに耳打ちした言葉が、たまたまそこに来ていたメチェのお兄さんに聞かれて笑われてしまった。
「さあさあ、食べてください。あ、お箸の方がいいですか?」
60代ぐらいのメチェのおばに、立派な日本語でこう言われたので驚いてしまう。
いただいた食事は残念ながらペルー風の肉とジャガイモ料理だったが、とてもおいしかった。食べながら話を聞くと、日本食は特別な行事のあるときにしか作らないのだそうだ。
よく見ると、日本的なおもかげはほとんどないと思っていた室内にも、ところどころに和風の小だんすがあったり、日本のカレンダーがかかっていたりする。日本に旅行に出かけて買ったり、旅行に行った知り合いがくれたりするのだろう。
「はい、これおようかん」
食後に緑色のおいしそうなようかんが出された。こちらのマメを使って作るので緑になるらしい。思いがけない日本の食べ物に嬉しくなり「ようかんがあると、お茶が飲みたくなりますねー」などとつい言ってしまった。するとちゃんと急須に入ったお茶が出てきた。まるで催促してしまったようで、恥ずかしさに小さくなる。
2世のおばさんが話してくれた。
「私達は昔チンボテに住んでたんですけど、大変でしたよ。あの・・・あれ、何だっけ・・、そう、第二次世界大戦の時にはスパイだって疑われて、リマに逃げてきたんですよ。ほれ、日本語もね、あっちこっちの学校へ行って、ちょこちょことしか勉強してないから、ひらがなとカタカナしか読めないんですよ。」
その時は私に知識がなく、なぜ第二次世界大戦で日系人がスパイ扱いされたのか分からなかったが、苦労を嘗めた移民の生活に、かすかながら触れた気がした。また2世以降の日系人にとっては日本語の習得もなかなか大変なことで、しかも学校に行かないと身につかないということも初めて知った。
話していると「第二次世界大戦」のように、時々分からない言葉がある。この家でもやはり日常会話はスペイン語のようで、そちらの方がずっとスムーズに出てくるようだった。ただやはり両親からナマの日本語を聞いて育っただけはあり、抑揚はちゃんと日本人のものだった。
移民は日本をどう思っているか
日系ペルー人はかつての祖国・日本のことをどう思っているのか。メチェはかつて1カ月間だけ新潟の親戚の家に滞在していたことがある。それについて「どうだった?」、と尋ねると・・・
「行くだけならいいけれど、住みたいとは思わない」
という返事が帰って来た。
日本の寒く厳しい気候もさることながら、南米の明るくおおらかな人々の間に生まれ育った彼女は、日本人の間での生活をきゅうくつに感じたのではないだろうか。恐らく南米である程度豊かな暮らしをしている日系2世以降の人々は、日本という国を知った上でさらに帰り住みたいとは思わないに違いない。メチェの意見は、そうした現代の日系人の意見を代表するように思われた。
ところが日系1世である彼女の母は、日本をいつも恋しがっているのだという。日本の友人とメールでやりとりをし、いつも日本のテレビ番組ばかり見ているそうだ。言葉も不自由で、気候や生活習慣も異なる異郷での生活。それが何十年にも及ぶと、ホームシックのうずきは押さえがたいほどになるのかもしれない。
100年前後の昔にペルーに渡った移民のグループが、一体どんな気持ちで故国日本を思ったのか。そのふるさとへ寄せたであろう望郷の思いが、メチェの母の思いと重なるような気がして、一瞬目がしらが熱くなった。
(旅行時期 2004年4月)
* この旅行記は2004年4月のもので、3年以上にわたる世界一人度の様子を記録した”さわこのWondering the World”からの転載です。
© 2004 Sawako Suganuma