https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1461/
日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)
(英語)ハワイ出身者と本土出身者の敵対関係については恐らく聞いたことがあるでしょう。対立は長く続きました。戦後に至るまでです。
軍駐屯地の売店に、特にハワイ出身の兵隊が1本10セントのビールを毎晩飲みに行っていました。それは消灯時間直後、10時だったと思いますが、私は兵舎にいました。ドアの外で大騒ぎする声が聞こえてきました。すると酔ったハワイ出身の男が兵舎に押し入り、私たちはもう寝ていましたが、友人のユタ州出身の”ユク”・ミナガを殴り始めたのです。ユクは私の部隊の前進観測班の無線係でした。奴らがユクに殴りかかったので私は飛び起き、馬乗りになって殴っていた男をなんとか引き離そうとしました。すると別の男が、2人だったかもしれませんが、私の首を絞めて押し倒し、殴ってきました。その間起きて来る人は誰もいませんでした。そんな騒ぎの中で眠れるわけはないのですけどね。簡易寝台が並ぶ小さな部屋でしたから。酷い目に遭いましたが、病院に行かなければならないほどではありませんでした。
翌日、部隊長が来て言いました。「昨夜君たちを襲った奴らを見つけた」そして聞かれました。「告訴するか?」私たちはあまり時間をかけずにほんの数分間考え、「告訴はしない。これを全部ドイツ人にぶつけようじゃないか」と答えました。そして握手をして終わりにしました。この件は記録にも残っていません。我ながら良い対応だったと思いますよ。
日付: 2015年1月3日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: リリー・アン・Y・ウェルティ・タマイ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ススム・“スス”・イトウ氏は、日本人移民のソウヘイとヒサヨ夫妻の子として1919年カリフォルニア州ストックトンで生まれました。イトウ家は、コミュニティの多くの日系アメリカ人と同様に小作農としてセロリやテンサイ、アスパラを作り生計を立てていました。スス・イトウは慎ましい暮らしの中で育ちました。
1940年、イトウ氏はアメリカが第二次世界大戦に参戦する前に21歳で徴兵されました。最初はカリフォルニア州リバーサイド近くのハーン基地で需品運搬用トラックや専用車の維持を行う多人種混合ユニットに配属されました。戦時中は人種隔離部隊である第442連隊戦闘団傘下の第552砲兵大隊に所属し、砲兵C中隊で中尉を務めました。その間家族はアーカンソー州ローワー収容所に強制収容されていました。第二次世界大戦後、イトウ氏は復員兵援護法を利用し大学で生物を学び、生物学と胎生学で博士号を取得しました。イトウ氏は自身の研究分野の先駆者となり、1960年にはハーバード大学医学部で教職に就き、1991年以来名誉教授を務めています。
イトウ氏は、2015年9月、96歳で亡くなりました。(2015年9月)
憲法に守られることを信じていた父(英語)
三世のビジネスマン(1935年生)
家族のアマチでの強制収容について会話が不十分だった(英語)
日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事
第二次世界大戦中、所持品を保管してくれていた一家 (英語)
アーティスト(1926年生)
「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)
帰米二世、詩人、活動家(1923年生)
日本語を教えるよう圧力を受けた祖父(英語)
祖父がFBIに連行された後隣人の世話になった母(英語)
原爆投下直後(英語)
広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)
不運だった親戚たち(英語)
息子が原爆を生き延びる希望はほとんどないと考えていた両親(英語)
核兵器についての考え(英語)
マンザナーに向かう途中での喪失
ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)
ペルーから米国へ強制連行(英語)
クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)
フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)
米国在住の日系コロンビア人(1974年生)
フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)
クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)