https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1711/
広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)
(英語)何も覚えていません。閃光も見ていないし、爆破音も聞いていません。爆発後どのくらいの時間が経過していたかは定かではありませんが、覚えているのは意識が戻ったことだけです。その時私は大量の瓦礫の下敷きになっていました。私の上に全て落ちてきていましたが、何分か意識を失っていただけで怪我はありませんでした。
私は自力で抜け出すことができました。周りの物からしだいに煙が上がり、燃え始めていました。私はそこから抜け出して庭の方へ向かいました。その頃までにケニーは門の外から庭に戻っていましたが、小さい放射線やけどを負っていました。おでこに丸いやけどができていたのです。明らかに放射線が当たっていて、頭部に小さな放射線やけどができていました。でも重傷には至りませんでした。
一方祖母は、原爆が爆発した時窓の前にいました。割れたガラスが祖母の体に突き刺さりました。何十もの小さなガラス片が祖母の体に食い込み、大量に出血しました。でも致命傷にはならず、自分で動くことができました。自力で起き上がることができました。祖父は、祖母を救出できるくらいの状態ではあったので、2、3人の男性と一緒に祖母を助けました。そんな訳で、祖父も無事でした。
その頃までには辺り一面が燃え始めていました。私たちの小さな近隣地域の建物は、視界に入る限り全て燃えていました。それで私の祖父は、何人かの男性と一緒に消火してみると言いました。家には汲み上げポンプがあり、祖父たちは水を汲んで火にかけ始めました。しかし被害の規模に気づいていませんでした。町全体が炎に包まれていたのです。祖父たちがやっていたことが何であれ、役に立たなかったことは確かです。それから祖父は祖母に、子供たち、つまり私たちを連れて町を離れ、火が出ていない山に向かうように言いました。祖母は私たちの手を引き、近くに道の通っている川に向かって歩きました。
日付: 2019年9月3日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: 三木 昌子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。
第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。
ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)
戦時中のプロム (英語)
民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)
退役軍人の影響 (英語)
真珠湾攻撃の日 (英語)
ハワイ州知事の元ファーストレディー
日本と米国
一世実業家(1900-2005)
東京の会社が焼失
10代での収容所生活 (英語)
(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者
日記をつけるように命令され、後にFBIへ押収(英語)
第2次大戦中に第442連隊に所属していたハワイの二世
真珠湾攻撃 (英語)
日本人移民の衣服専門家・研究者
兵士たちを手助け (英語)
兄の出兵、そして生き残ること (英語)
白人と同じ権利を求めて(英語)
公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)
立ち退き命令を知らないカリフォルニア人(英語)
真珠湾攻撃の日(英語)
病院に入った戦時捕虜としての父(英語)
愛国心 VS. 忠誠心(英語)