https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/500/
ジャーナリスト(1937生)
(スペイン語)当時の私はまだ幼かったこともありますが、地方では、日系人に対するペルー人の不愉快な行為に気づくことは特になかったですね。でも思い起こせば1947年には、私たちはもうリマに戻っていました。戦争が終わって2年が経っていましたが、それでもまだ、そうですね、恐怖のようなものを感じている人もいました。
それから、家族がリマに戻ったときには、学校はすでに始まってたんですが、私は入学できなかったんです。それで父は、「これから何ヶ月かを何もしないで過ごすなよ。日本語を少し勉強しなさい」と私に言ったんです。1947年当時はまだ、日本人やその家族が自由に集まったりすることができませんでした。そんなわけで、私たちは実質的には非合法の小さな学校に通っていたんです。
今も覚えていますが、その学校はヒロンとクスコから1ブロック離れたコルコバードという長い路地にありました。アパートの2階で、ヒロセという先生がいました。教室には子供たち、ちょっと年上の子達に、もう少し年上の人たちもいましたね。みんな一緒の教室で、先生が私たちに日本語を教えてくれていました。帰るときは、集団で出ることができなかったので、2人ずつ出て行かなければなりませんでした。初めに二人が出て、何分かたってからまた二人出る。そうして人目をはばかっていたんです。信じられないでしょう。戦争から2年も経っていたんですけどね。
日付: 2005年10月7日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: アン・カネコ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
アルフレド・カトウ氏は1937年11月12日にペルーのカニェテに生まれました。第二次大戦中、カトウ一家はカニェテに住んでいましたが、家族とともにルナグアラと呼ばれる山脈地帯へ一時避難しました。1947年にリマへ戻りましたが、当時はまだ日系人が公の場で集まることを許されていなかったため、彼は日本語学校へひそかに通いました。
彼はカトリカ大学に進学し、現在44年間のジャーナリストの経験を持っています。現在、日系ペルー人新聞『ペルー新報』の編集局長であり、サンマルティン・デ・ポレス大学の教授でもあります。(2005年10月7日)
初めての学校 (英語)
日本人移民の衣服専門家・研究者
米国で働く前に日本で勉強したこと(英語)
一世のランドスケープアーキテクト(1940~2016年)
病院に入った戦時捕虜としての父(英語)
公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)
愛国心 VS. 忠誠心(英語)
子供のころ体験した差別(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督
収容所のポジティブな側面(英語)
一世と二世の一斉検挙(英語)
アートをサポートすることの重要性(英語)
イラストレーター、デザイナー
両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)
アメリカへ帰国後の帰米の扱い(英語)
カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)
出生地のもつ意義に気づいて (英語)
太鼓・尺八奏者(1944生)
市民権を取り戻す(英語)
ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)
忠誠心の質問への返答(英語)
収容所を出た後、シカゴでアパートを見つけることの難しさ(英語)
真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)