https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/503/
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
I*:妹さんが亡くなったのは、確か1942年10月でしたよね。ユザワさんは、その時既にアマチ収容所(別名グラナダ収容所としても知られる)に居ましたか?それとも、サンタ・アニタ集合センターでしたか?
アマチです。
I:一家がサンタ・アニタへ向かった時、妹さんは療養所に入っていて、一緒ではなかったのですよね?
そうです。
I:結核を患っていたのですね?
ええ。
I:一家の強制収容は、妹さんの病状に影響したとお考えですか?
もちろんです。家族で妹を看病することができたのに、施設では妹を気にしてくれる人なんて誰もいなかったんじゃないでしょうか。
I:妹さんが亡くなったことを知った時、それは予測していたことだったのでしょうか?ご家族は、妹さんが亡くなる覚悟はできていたのですか?
いいえ。
I:妹さんの死は、ご家族やご両親にどういった影響を与えましたか?
私たちはその時、グラナダ収容所に居ました。父は気丈に振舞っていました。母は…母は、泣き崩れました。
* "I"はインタビュアー(ダニエル・H・イノウエ)
日付: 2006年3月2日
場所: 米国、ニューヨーク州
インタビュアー: ダニエル・H・イノウエ
提供: Asian/ Pacific/ American Studies Program and Institute, Department of Social and Cultural Analysis, New York University.
ジョージ・カツミ・ユザワ氏は1915年カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼と彼の家族は1942年にコロラド州のアマチ収容所へ収容されました。1943年にユザワ氏はニューヨーク市へ転住、彼の家族も1944年に合流しました。その後、アメリカ陸軍へ志願し、2年間陸軍情報部に従事しました。除隊後はニューヨーク市で輸出業を営んでいましたが、彼の父の園芸業を助けるため自らのビジネスを廃業しました
1970-80年代にかけて、ユザワ氏は米国日系人市民協会ニューヨーク支部にて公民権運動に積極的に参加しました。ビジネスや公共交通機関の前に日本人を侮辱するサインを掲げた人々に対して訴訟を起こし、さらには高田賢三(Kenzo)論争やILGWU(国際婦人服労働組合)による地下鉄の反日ポスターキャンペーンでは先鋒をきって抗議しました。これらのキャンペーンの結果、二世活動家たちと共にAsian Americans for Fair Media, Inc.を立ち上げました。また、彼は賠償金運動にも積極的に参加し、1981年にニューヨーク市で行われたCWRIC(戦時中の民間人転住と収容 に関する委員会)の公聴会を実現させました。
ユザワ氏はブルックリン植物園での第1回桜祭りを開催し、さらには老人に対し住居や介護をバイリンガルで提供するために、非営利団体JAHFA(日系高齢者援護会)を設立しました。20世紀の第4半期はコミュニティの老人のニーズに応えるため尽力を注いでいます。
2011年10月、ユザワ氏はなくなりました。(2011年10月)
父に教えられた収容所の写真の重要性(英語)
写真家・ビジネスマン。
父との思い出(英語)
一世医師の娘
日本の妻の家族(英語)
日本在住30年以上の日系アメリカ人陶芸家。(1942年生)
収容所の補償運動の達成と教育(英語)
(1919 - 2014年)日系アメリカ人の強制収容所に対する補償運動や公民権運動で活躍した活動家。
真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)
作家(1934年生)
お正月料理(英語)
日本在住、カリフォルニア生まれのビジネスウーマン。祖母である山野愛子の後を継ぎ、美容界で活躍。(1964年生)
収容所での最初の印象 (英語)
両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)
沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)
甥との対話から生まれた小説 (英語)
家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)
出生地のもつ意義に気づいて (英語)
太鼓・尺八奏者(1944生)
収容所の中で才能を磨く (英語)
アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)
カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)
収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)
忠誠心の質問への返答(英語)
ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)