https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/520/
津田塾大学学長、日本人の日系史専門家
日本であの当時、アメリカのことを学ぶ時にはね、例えば黒人問題学ぶ時に、私なんかが学んだ、私の印象に残っているのは、とにかく黒人問題っていうのは白人が悪いんだというふうに学んだわけですよね。だけどアメリカに来てみたら、黒人の中にもやっぱり昼間からお酒を飲んで仕事していないような人たちがたむろしているところ通るとね、やっぱり何かそちらにも問題があるかもしれないという見方もするわけですよね。
それと平行して、私は学生だったし、それでフルブライトの学生だったから、皆さんもうすっごく良くしてくださったんですけどね。だけど周りで見ていて、あの競争するような日本からの移民、その当時の移民です。60年代に移民してきてる人たちが周りにいらしたんですね。あの東部でしたからほんと少なかったけどね。そういう人を見ていると、やっぱりね、アメリカで本当にそこに根づいて、競争して、アメリカ人と競争して、その社会の中枢に入っていくっていうのはね、すごく難しそうだなぁと学生の目にも見えたわけですよね。だから私はすごく楽をしているんですけれども、ああやってもう家を捨ててきた人っていうのはね、なんかすごく大変そうだなっていうのがあって。
で、その時にアメリカ社会っていうのは、さっきの黒人の例もそうですけれども、その日本から来た移民に関しても、あるいは他の国から来た移民に対してもね、本当にこれ移民の国・平等の国・自由の国って言えるんだろうか?っていう気持ちを持って。やっぱり物事っていうのは両面見ないとね。日本で学んでいたこととやっぱり違うし、それからアメリカに来ても、自分自身が経験することと、ちょっと立場が違うと、同じ日本人でもこれだけ違うのかなっていうね。なんか違いを色々なレベルで見て、興味持ちました。
日付: 2005年10月7日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: アン・カネコ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
津田塾大学でアメリカ研究を専攻。卒業後、フルブライト奨学生としてシラキュース大学大学院歴史学科に留学し、アメリカ史を専攻する。アメリカの人種、文化の多様性を目にした彼女は、とくにアメリカ史の重要な部分である移民史に関心を持ち、日本からアメリカへわたった移民についての研究を始める。当時は、アメリカにおいても、それまでの政治を中心とした歴史から「社会史」に注目が移りつつあった時代で、指導教官も彼女の研究を応援してくださった。
帰国後、母校で教鞭をとり、アメリカ史、移民史の授業を担当しつつ、自分のテーマである日系アメリカ人についての研究を進める。1980年代、1990年代にはカリフォルニア州で一世、二世の聞き取り調査に精を出したが、その後、カナダの日系人についての研究にも進展し、両国の日系人の歴史、社会での受け入れられ方などを比較してきた。
最近は日系人と日本との関係について、「ララ物資」(「LARA―公認アジア救済機関」)などを例ににして考察している。 最近の主な編著書としては 『もう一つの日米関係史—紛争と協調のなかの日系アメリカ人』 (有斐閣、2000年)、『引き裂かれた忠誠心』(ミネルヴァ書房、1994年)(共著)などがあげられ、 1997年に出版した『日系カナダ人の歴史』 (東京大学出版会) はカナダ首相出版賞を受賞。現在は研究者としてだけでなく、津田塾大学の学長としても活躍中。 (2006年10月6日)
目立ちたくない外国人(英語)
在日三世・剣道家
人類全体への思いやり(英語)
ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)
アイデンティティ・クライシス(スペイン語)
(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長
両親がカナダへ渡航した理由(英語)
第二次大戦中にスロカンに収容。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー (1918-2004)
フレデリック・ヨシヒデ・ササキの家族構成(英語)
カナダの一世ビジネスマン(1918年生)
第二次大戦中の排日感情(英語)
戦時中に取り上げられた運転手としての仕事
笠戸丸移民
姉妹4人が国際結婚
横浜出身の戦争花嫁(1937年生)
日本へ行くこと(英語)
演歌歌手(1981年生)
在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)
在日日系アメリカ人デザイナー
政治権力の欠如が収容所の一因(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
東へ移住か渡日かの選択(英語)
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
囚人のように思えた収容所生活(英語)
東海岸とロサンゼルスの違い(英語)
日系三世として(英語)