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広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)
(英語)私の両親は2人とも二世、日系アメリカ人二世です。父はカリフォルニア州ベーカーズフィールド生まれで、母はブロウリー生まれです。両親とも子供の頃、一度日本に帰国しています。おそらく教育を受けるためだと思いますが、アメリカでより良い暮らしをするという夢を実現できなかったからかもしれません。
私の父は、まだかなり若い頃、おそらく10代前半で米国に単身で帰国し、べーカーズフィールドの家庭で雑用係として働いていました。父はそこで成長し、高校に通い、働き始めました。そして25歳位になるまでとても幸せに暮らしていました。父にはガールフレンドがいて、かなり真剣な付き合いに発展したようです。でもそれも、父親、つまり私の祖父から、「ヒロジ、—私の父の名前です—お前は結婚した。お前の妻がサンペドロ港に到着するから迎えに行きなさい」という手紙が届くまでのことでした。自分が結婚したことやサンペドロに妻を迎えに行かなければならないことをガールフレンドに伝えるのはとても難しいことだったと父は言っていました。
父が話を脚色したのかどうかは分かりませんが、結婚のいきさつについて、私はそんな風に聞いています。そうして父は、サンペドロ港へ母を迎えに行きました。「始めて花嫁と会った時どう思った?」と父に聞くと、「イチバンブサイクナ」と父は言いました。“ブサイクナ”は、良くないという意味の侮辱的な言葉です。私は母にも尋ねました。「お父さんに初めて会った時どう思った?」母は、「ガッカリシタ」と言いました。とても落胆したそうです。でも2人は素晴らしい人生を送りました。まあ、分かりませんけどね。そんなに素晴らしい人生ではなかったかもしれませんが、2人は亡くなるまで50年以上連れ添いました。両親は1935年に結婚し、兄のケニーは1936年に生まれ、私は1938年に生まれました。
日付: 2019年9月3日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: 三木 昌子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
1938年イーストロサンゼルス生まれ。家族に連れられて1940年に来日。家族経営ビジネスのためにその年のうちに両親は弟を連れて帰国するが、ハワードと兄のケニーはそのまま日本に留まる。
第二次世界大戦が始まり、米国の家族はアリゾナ州ポストンに強制収容される。1945年8月6日、広島に原爆が投下され、ハワードは爆心地からおよそ1.3キロ地点で被爆したが無事だった。1948年に兄と共に米国に帰国し、家族との再会を果たす。
ハワードはコンピュータ技師の道を歩み、引退後は米国広島長崎原爆被爆者協会(ASA)のメンバーとなり、積極的に被爆体験を共有している。(2019年9月)
結婚相手を紹介
一世実業家(1900-2005)
父方と母方の家族関係 (英語)
(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者
日系人を研究している日本人研究者の推論 (英語)
見合い結婚 (英語)
日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)
二世にとってのパフォーミング・アーツ(英語)
ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。
二世の体験から学んだこと(英語)
サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督
アルゼンチンへ移住してきた家族背景(スペイン語)
(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長
アイデンティティ・クライシス(スペイン語)
日本人と日系アメリカ人との主な違い(英語)
在日日系アメリカ人デザイナー
日系 vs. 二世(スペイン語)
二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)
非日系人との結婚(スペイン語)
『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)
世代の格差(スペイン語)
日系社会では世代交替が必要(スペイン語)
日系アイデンティティ(スペイン語)
自己アイデンティティは日本人の子孫 (英語)
血管外科医(1921年生)