https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1083/
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
(英語)第1800大隊に属していた頃、僕らがどのようにここに行き着いたか等、互いのいきさつを尋ねることはありませんでした。誰がそこに居て、何故そこに居るか知ったのは戦後でした。例えば、フォート・マクラレンやフォート・ライリーといった基地では、多くの日系二世兵士が隔離されていました。 ルーズベルト大統領がフォート・ライリーを訪れた時、二世兵士全員が格納庫に入れられるということがあったそうです。ホリ氏は、当時の様子をスケッチで残していました。僕は、彼のインタビュー記事を読みましたが、証言によると、格納庫の中まで行進する間、外からマシンガンや戦車が見えたそうです。格納庫の中に入ると、武器を身につけた幹部たちは、彼らを端に座らせ、真っ直ぐ前を見て言葉を発しないよう命じたそうです。手洗い休憩に行きたい者のみ手を上げるように、ということでした。
ホリ氏によると、アイダホの農家出身の若い二世たちにとって、それは初めて受ける差別で、彼らはただ涙を流していたそうです。そして、帰米たちは激怒していました。4時間後、ルーズベルト大統領が去った後、日系人兵士たちは元の場所に戻りましたが、皆静まりかえり、ほとんど誰も口をきかなかったそうです。 その後、フォート・マクラレン基地に移動される前ですが、帰米たちは、「俺はどうするか決めた。奴らは俺たちを日本人として扱う。それなら日本人になってやろうじゃないか。こんな国どうにでもなれ。俺はこんな国のためには絶対に戦わない」と宣言しました。その後、彼らはフォート・マクラレン基地へと移動となり、第442連隊戦闘団への入隊のための訓練を受けることになりましたが、大勢が反抗しました。その後の扱いについて、彼らには選択肢がありましたが、強く反対した者は裁判にかけられ、投獄されました。
日付: 2005年3月25日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ソージン・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
セドリック・シモ氏は、1919年に生まれ、ロサンゼルスの多人種が混在する地区ボイルハイツで育ちました。シモ氏は、ボーイスカウト活動や剣道に取り組み、日系人スポーツクラブのクーガースでも活発に活動しました。シモ氏は、カリフォルニア大学バークレー校の大学院に在籍していましたが、真珠湾攻撃の次の日、徴兵令状を受け取りました。彼は、アメリカ陸軍情報部語学学校への配属を希望しました。しかしながら、休暇中にマンザナーに強制収容された母親への訪問を禁じられたことに激怒し、外国戦線への参加を拒否しました。その結果、彼は、工兵第1800大隊に配属されました。この部隊には、疑いをかけられたドイツ系、イタリア系、日系人が配属され、戦闘隊が訓練中に壊した道路、橋、フェンスの修復工事にあたりました。シモ氏は、工兵第1800大隊を名誉除隊した後、ボイルハイツへ戻り、ホンダに就職し、輸出担当部門で副代表となりました。 2008年11月20日、日本政府は、日米貿易摩擦が問題となった時期、当時ホンダで働いていたシモ氏が、両国間の貿易推進に寄与したことを評価し、旭日双光章を授与しました。
2020年4月、100歳で亡くなりました。(2020年4月)
日系人としての誇り(スペイン語)
二世日系アルゼンチン人 (1929年生)
戦中に救済会に送られた救援金
ブラジル日系移民の母 (1900-1996)
戦時中の救済会の役割
警察での取り調べ
真珠湾攻撃の影響の少なさ (英語)
医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)
大戦中のカナダ在住の日本人漁師らの扱い (英語)
大戦中カナダ政府の許可を持って出版した邦字新聞 (英語)
大戦中カナダ政府によってサポートされた邦字新聞 (英語)
へースティング・パーク収容所から抜け出して (英語)
カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)
同胞の援助と協力 (スペイン語)
日系ペルー人画家 (1932-2016年)
日本語学校の閉鎖と日本人の強制送還 (スペイン語)
出生地のもつ意義に気づいて (英語)
太鼓・尺八奏者(1944生)
記者の責任 (英語)
ジャーナリスト (1915 - 2007年)
話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)
JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長