ネブラスカ州
ネブラスカ州は平野が多く、地味豊沃で農業や畜産に適している。おもな産業は農業で、穀物、果物、野菜、砂糖大根、牧草など多種類で、馬の名産としても知られる。州都のオマハは製造業が盛んである。
この州に本格的に日本人が移住してきたのは、1904年で、岡島金弥によってオマハの缶詰工場に約120人が送り込まれたのが最初とみられる。
そのほかの移住者としては、UP鉄道、バーリントン鉄道の沿線に、集団で送り込まれたものがいて、その後、付近の農園で働き、なかには農業家として住みついたものもいる。
商業としては、オマハ、ノースプラット、スカッチブラフなどでホテルや洋食店、日本美術雑貨店を早くから開いたものがいた。なかでも、1960年代までつづいている代表的な店に、オマハの東洋貿易商会、ノースプラットのパレス・ホテル、スカッチブラフのイーグル・カフェーがある。
このほか、リンカーン大学には古くから日本人留学生が学んでいた。
白人と日本人の結婚を禁止
ネブラスカ州内の日系人の人口は、1900年に2人だったのが1910年には590人、以下1920年804人、1930年、647人、1940年480人、1950年619人、1960年905人となっている。(国勢調査より)
「百年史」では、州内の各地域別に日系人の歴史を記録している。
オマハ市のなかで、以下のような興味深い記述がある。
「ネブラスカ州は、今も白人と日本人の結婚を州法で禁じているが、戦時中はただ他地方と同様に戦時下敵生人としての諸制限を受けたのみで、別に排斥の如きものは無かった」
スカッチブラフ地方は、ネブラスカ州の西北にあって寒村だったが、1904年に山口県人、田仲新蔵が大根の農地で働いたのが最初だった。その後、1910年には200人を越える居住者がいた。
また、イーグル・カフェーは創業者の時代から西部ネブラスカで一番の評判をとった有名な洋食店である。
オマハの西130マイルのレキシントン市とその付近では、1905年ごろには一時、200人の日本人が居住していた。その後は、神田兄弟農園が大規模に経営をしている。
ホール郡の最大の町グランドアイランドでは、1909年から市内の目抜き通りで、広島県出身の進藤三郎がパリス・コーヒー店を開いて成功。日本人20人、白人学生5人をつかって、一日の売り上げが120ドルを下らなかったという。
排日に必死で対抗した日系社会
「百年史」でのネブラスカ州紹介では、とくに1920年ごろに起きた排日の問題についてまとめている。カリフォルニア州での排日土地法の影響で、ネブラスカ州議会にも「外人に土地所有を禁じ、借地を一ヵ年に制限する」という議案が提出された。第一次大戦後の好況で、日系人は当時州内に700人だったが、農業、商業などで成功していたことが反感を得たようだ。
日系人社会は、当時白人から尊敬されていた加納久憲牧師に依頼して、法案の通過防止策を講じるなど奔走した。いったんは議題に上げられずに済んだが、今度は借地も禁止するという同様の法案が出され問題は再燃した。
州内の日本人はさらに一致団結して「寧州日本人啓発会」を結成して対抗した。知事などの有力者の力も借りて運動をつづけた。この問題は全米にも知れ渡り、親日派の力を得て、最終的には日本人側に有利な形で法案は通過した。
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ニューメキシコ州
鉱山労働によってはじまる
ニューメキシコ州はコロラド州の南部に位置し、東はカンザス州とオクラホマ州、西はアリゾナ州、南の大半はテキサス州でそのうち西半分がメキシコ国境に接している。州全体が高原地帯だ。
ニューメキシコ州の日本人の歴史は、鉱山労働によってはじまり、鉄道労働がそれにつぎ、ずいぶんあとになって農業で入植した。戦後は、鉱山と鉄道労働ともにほとんどなく、エルパソよりのメシヤ地方とアルバカーキの近郊に、農家が少数あって、その他は東部ラビングトンに数件の大きな農家があるだけとなった。
また、州の北東のサンタフェの郊外には、太平洋戦争中、日系人抑留の家族キャンプが建てられ、多くの日系人社会の有力者が収容された。
炭坑労働者として、1907年ごろから、西部のギャラップ市を中心に多くの日本人労働者が入り、1910年前後には一時、その数は300~400人に達した。このほか、ギブソン、ウィーバー、ヒートン、ナバホー、クラークベリーなど、いずれもアメリカン・フエール社所有の炭鉱で日本人は働いた。
これらは、1895年から大阪人の中西政友をボスとして供給された。日本人が主として従事した仕事は、炭坑夫をはじめ、さまざまな日雇いが多く、炭坑夫は採掘量に対して賃金をもらい、日雇いは十時間の労働に対して賃金が支払われた。
ヴァンハウテン炭坑ということろでは、日本人のほかさまざまな人種がいて、「労働者には黒人が多く、グリーク、イタリー、メキシコ人がこれにつぎ、日本人に対する偏見、軽べつは殆ど無かった」という。
日系人農家が大成功したメシヤ、ドニヤナ地方
農業との関係では、北部の中央平原のマックスウェル・シティは、砂糖大根に適していて、日本人農家を歓迎した。南部ビーコース平野のレーキウッドには、炭坑に労働者を供給した川本喜代楠(和歌山県出身)らが、共同で郊外に土地を購入して、植民地をつくった。
以上、「百年史」のなかにある概説から、気になるところを紹介したが、このあと、アルバカーキとその近郊、ギャラップ地方、メシヤ地方その他、と地域別に日系人の足跡を追っている。
アルバカーキでは、最初は郊外のベレンに、サンタフェ鉄道関係の労働者として働いていた日本人が入っていたが、鉄道の仕事を離れた人たちが住みはじめた。
州の南部のメシヤ、ドニヤナの地方は、数は少ないが日系人農家が大成功した。
「一九一八年、ネブラスカからドニヤナに中山嘉一郎(富山)一家が移住してきた当時は、この地は殆どセージブラッシばかりの砂漠地帯で、東南各地から白人も続々移住しつつあり、日本人としては最初の入植であった。当初は砂糖大根、野菜物を耕作し、一九二三年ごろすでに土地三〇英加を所有、借地一五〇英加を経営、そのころからキャンタロープをも耕作、爾来子女を育てつつ苦闘、白人農家にごして堂々と農業をつづけ基礎を固めるうち一九四二年末中山は死去、遺業をついだ一家が現在約五〇〇英加を所有耕作している」
と、代表例を記している。
「百年史」はニューメキシコ州の日系人の紹介に12ページを割いているが、そのうち2ページにわたって、ユニークな人物物語をのせている。「鉄道働き五十年、日本人の声価あぐ ギャラップの木村源太」という見出しで、1900年に19歳で渡米してきた熊本県出身の木村源太について、その活躍ぶりを記している。
サンフランシスコに上陸した木村は、旅館の主人からアリゾナ州の鉄道仕事をすすめられ、アリゾナがどこにあるかもわからずようやくたどり着いたものの、英語はさっぱりわからず、ジャップとばかにされ、あげくの果てにクビになる。
ここから話ははじまり、しかし、その後めげずに再び鉄道の仕事につき、その仕事ぶりが評価され、ギャラップの町の鉄道インスペクターになった。このころ、鉄道で「日本人雇用反対」のストライキが起きたが、木村の活躍でこれが収まった。
また、開戦後も日本人を追放せよという動きに対して、会社は木村ら日本人鉄道従業員を守った。ここにも木村の存在が大きかった。百年史ではこう言っている。
「一鉄道工夫見習から身を起し、正直と勤勉で去る一九四六年を老齢で引退するまで四十六年間を勤続、会社や米人社会の絶大な信頼を得、二度も白人ユニオンを向こうに廻して『日本人ここに在り』と、大和民族の成果を高めた木村老翁の如きは稀であろう」
ニューメキシコ州の日系人は、1900年に8人だったのが1930年に249人、1960年には930人になっている。(国勢調査より)
(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。敬称略。)
* 次回は「テキサス州の日系人」を紹介します。
© 2015 Ryusuke Kawai