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ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
(英語)私は日本語の読み書きができるほうでした。そのためフォート・スネリング(の日本語学校)で教えていたのですが、その時私はその日本語の語学学校で英語を教えるという、面白い仕事をしたのです。米軍は英語よりも日本語が得意な「帰米(アメリカで生まれ日本で教育をうけ帰国した者)」を徴兵していました。日本語を読める人が不足していたので、彼らは非常に価値のある人材だったのです。ところが「帰米」たちは英語の能力に限界があったため、翻訳するのに苦労していました。そこで私がこの日本語学学校で彼らに英文法を(笑)教えたのです。これはいい経験になりました。(日本語の方は)私は初歩的な日本語しか教えていなかったのですが・・・
その後、私は(軍の)幹部候補生学校(の訓練生)に選ばれました。思い返してみれば、軍にも人種的な差別はありました。442連隊は(日系人だけで集められるというように)分離されていましたから。442連隊の前身となる第100歩兵隊は、真珠湾攻撃前に日系人を徴兵してつくられた部隊です。
(語学)学校には「ハオレ(白人)」のボッグス氏や韓国人など色々(な人種が)いました。またキャンプサベージには白人兵士の特別クラスがありました。このクラスの生徒は非常に優れた語学スペシャリストで、多くの生徒が仏語、スペイン語、独語で博士号を取得しており、エール、ハーバード、ミシガン大学などを出た家系の良い人たちでした。彼らのプログラムは私達とは随分違ったものでしたが、「ハオレ」の兵士に日本語を聞かせたいとの考えから、週に1度だけ午後に私達の何人かとマンツーマンで日本語会話するということがありました。
日付: 2004年3月18日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ミシェル・マキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
リチャード・ヒロミチ・コサキ博士(1924年9月14日に生まれ)は、ハワイ州ホノルルで育ち教育を受け、人生の大部分をハワイで過ごしています。第二次大戦中は、陸軍情報部(MIS)に所属し指導教官として務めたほか、アメリカ占領下の日本で通訳として従事しました。1948年ハワイ大学の学部課程を卒業、その後、ミネソタ大学で修士号と博士号を取得しました
博士課程終了後、ハワイ大学で教鞭をとるために再びハワイへ戻った彼は、コミュニティ大学の副学長、西オアフ単科大学学長、学術事務局の副局長、ハワイ大学マノア校学長代理、東海大学ホノルル校学長など勤めました。また、イースト・ウェストセンターの設立やハワイ大学のコミュニティ大学システムの確立にも貢献しました。彼の最も好きな教育哲学は「話してください、私は忘れてしまいます。教えてください、私は覚えます。やらせてください、私は学びます。」です。
コサキ博士はミルドレッド(旧姓:ドイ)と結婚し、1962年に一人息子ランドルを授かりました。(2004年3月19日)
第二次世界大戦中、所持品を保管してくれていた一家 (英語)
アーティスト(1926年生)
「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)
帰米二世、詩人、活動家(1923年生)
日本語を教えるよう圧力を受けた祖父(英語)
日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事
祖父がFBIに連行された後隣人の世話になった母(英語)
原爆投下直後(英語)
広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)
不運だった親戚たち(英語)
息子が原爆を生き延びる希望はほとんどないと考えていた両親(英語)
核兵器についての考え(英語)
マンザナーに向かう途中での喪失
ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)
ペルーから米国へ強制連行(英語)
クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)
フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)
米国在住の日系コロンビア人(1974年生)
フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)
クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)
クリスタルシティでの最初の食事(英語)
妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった
クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)