https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/410/
カナダの一世ビジネスマン(1918年生)
(英語) I*: 戦争が始まった頃、まだ大学生でしたか?
はい。戦争が始まった時、大学に在籍していました。当時は、新聞にも差別的なニュースがよく取り上げられていました。大抵は二人の政治家によるもので、当時まだ日本人(日系人)には選挙権がなかったからだと思います。そのうち一人は、市議会議員のアルダーマン・ハルフォード・ウィルソンで、彼はいつも排日的な発言をしていましたね。そしてもう一人はハワード・グリーンです。彼はオタワの保守系下院議員でした。 私がどうして彼のことをよく覚えているかというと、彼はカナダ合同教会の主要なメンバーで、教会関係のニュースでもよく取り上げられてたからです。新聞では、下院議会でのオタワの日系人に対する彼の排日発言が取り上げられていました。しかしそれに対抗して日系人の為に声を上げてくれるような人や政治家はほとんど居ませんでした。でも私が大学に通っていた時、ヘンリー・アンガスという教授が居て、彼は、とても思いやりに満ちたやり方で、当時の排日的な雰囲気を無視するよう学生達を励ましてくれていました。彼は二世の学生達が各々の学業に専念できるよう、差別によってやる気を失ってしまわないよう、本当によく励ましてくれました。
I: 開戦時については、どんな事を覚えていますか? 戦争が始まった当初、私たちは皆大学のカナダ軍将校訓練部隊(COTC)への入隊を要望されており、制服も手渡されていました。週に2,3回は、行進したりいろんな訓練を受けなくてはなりませんでした。軍事教練と呼ばれる事をしていたんですね。シュラム大佐という人物が居ましてね、彼は物理の教授であり大佐でもあって、ブリティッシュコロンビア大学のカナダ軍将校訓練部隊(COTC)のトップを務めていました。
* “I”はインタビュワー(テリー・ヤマダ)
日付: 2004年9月24日
場所: カナダ、トロント
インタビュアー: テリ・ヤマダ
提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト、日系文化会館
フレッド・ヨシヒデ・ササキ氏は1918年7月28日に日本の広島県で生れました。生後9ヶ月の時、すでにブリティッシュコロンビア州バンクーバーにいた父へ合流するため母とともに渡加しました。公立の学校で教育を受け、1939年にブリティッシュコロンビア大学の商業・財政学部に入学しました。
第2次大戦が勃発し西海岸からの日本人・日系人の立ち退きが始まったため、彼はアルベルタ州カルガリーへ移り、通信教育にて学位を取得しました。1943年、ブリティッシュコロンビア州ソロカンに収容されていた家族を呼び寄せるため、オンタリオ州トロントへ移りさまざまな職に就きました。
その後、カナディアンタイヤと呼ばれるカナダの著名な小売り業者で約45年間働き、財政部の副社長を務めました。現在は、日系カナダ人コミュニティに積極的に携わり、日系コミュニティのための老人ホームを管理するもみじヘルス・ケア・ソサエティの創設にも貢献しました。すでに彼の妻は他界していますが、現在でもスポーツ、コミュニティ、家族行事などに積極的に参加しています。
アーカンソー州にあるジェローム転住センターへ汽車による移動(英語)
カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)
日本軍に包囲されたときのメリル・マラウダー部隊の状況(英語)
市民権を取り戻す(英語)
ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)
収容所の話ではなく人間ドラマ(英語)
作家(1934年生)
忠誠心の質問への返答(英語)
収容所を出た後、シカゴでアパートを見つけることの難しさ(英語)
真珠湾攻撃の後の疑惑(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
真珠湾攻撃後、ペルーからアメリカへ連行(英語)
ペルー生まれの二世。第二次大戦中アメリカへ連行。(1930-2018)
ペルーから連行中のアメリカの輸送船の状況(英語)
真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜索(英語)
日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)
子供の時にみた父の逮捕(英語)
アイデンティティ・クライシス(スペイン語)
(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長
戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)
先生から聞いた反アメリカプロパガンダ(英語)
第2次大戦中の日本での苦難(英語)