前回は與右衛門の不慮の事故死とシアトルから蒲井への悲しみの帰国についてお伝えした。今回は妻のアキがその悲しみから立ち上がり、再度シアトルへ向かい、姉妹も再渡航したことをお話ししたい。
アキの理髪業の再開
與右衛門の死後、アキは空虚な悲しみの日々が続いた。アキは、このまま蒲井にいて田畑を耕していてもしかたないと考えはじめた。與右衛門が亡くなって2年の歳月が過ぎた頃、もう一度シアトルへ行き、一稼ぎしようと決断した。
アキは再起を期して、1931年1月の正月明けに、蒲井の大勢の人に見送られ単身でシアトルへ向かった。出発当日の朝、仏壇に参り、與右衛門に再びシアトルへ行くことを伝えた。與右衛門が喜んで背中を押してくれているような気がした。アキ36歳の、凄まじい挑戦の門出だった。
1月10日に神戸から横浜丸に乗り、1月27日にシアトルに到着した。アキは18歳のとき「写真花嫁」として初めてシアトルへ行ってから、これが4回目の渡航だった。2週間の長旅だが、海の荒波もアキには平気だった。シアトルに着くと、多くの親戚や與右衛門の友人らがシアトル港までアキを出迎えてくれていた。2年ぶりのシアトルの景色は、ほとんど変わっていなかった。もう二度と来ることはないと思ったシアトルは、アキにとって感慨深いものがあった。アキは、與右衛門と長年やった理髪業をもう一度やろうと考えた。
與右衛門と一緒に始めた地下にある理髪店からそう遠くない所に、簡素ではあるが小ぎれいな理髪店を見つけ、そこで開業した。『北米年鑑』1936年版に、1935年の統計資料として、理髪業経営する日本人39名の名前と住所が掲載されている。シアトルにある日本人経営の理髪店数は、一時期100軒を超える時期もあった。しかしこの頃には帰国者も増え、かなり少なくなっていた。この名簿の中に、「新舛アキ 302-2nd Ave. So.」と掲載されている。
この名簿の中には、伊東忠三郎の名前もある。伊東は、理髪業組合長や山口県人会長と同時に、1934年から3度目の北米日本人会会長の座についていた。伊東は、このような要職にありながら自分自身の理髪店をアキの店の近くで経営し、アキを暖かく見守ってくれた。與右衛門が結婚前に一緒に理髪業を営んだ吉田龍之輔も、名簿の中にある。龍之輔の理髪店もアキの店の近くにあり、頻繁に行き来した。龍之輔は、第2回で紹介したように『ジム・吉田の二つの祖国』に登場する、ジム・ヨシダの父親である。アキは、伊東を始め、與右衛門の多くの友人、親戚、理髪業の仲間らに助けられて店を経営することができた。
この理髪業名簿を見て気づくことがあった。それは、39名のうち女性経営者が16人おり、全体の41%を占めていた。『北米年鑑』1936年版によると、シアトルには1935年当時、日本生まれの女性が1,400人近くいた。そのうち、アキのように夫と死別した女性は100人ほどいた。理髪業を単独でやっている女性は、アキと同じような環境にいた人も多くいたようだ。
日本人理髪店は夫婦共稼ぎで、髭剃りは女性の役目。ソフトな指づかいと丁寧なサービスが白人に好評だったと第3回でお伝えした。與右衛門とアキが2人で経営していた1916年頃は、ほかの日本人理髪店でも、女性はあくまで男性のパートナーであった。1935年頃には、シアトルでは日本人女性の理髪技術の評価が定着し、理髪店の経営を女性1人でできる環境ができていたのだ。シアトル日本人理髪店は、このように先駆的な女性活躍社会ができていたのだった。アキも、逞しい女性経営者の1人だった。
アキはたった1人で、朝早くから夜遅くまで働いた。長年に渡って與右衛門と理髪業をやってきたので、アキの理髪の腕前は、2年間の空白はあったものの、確かなものがあった。アキの理髪店は、與右衛門と一緒にやってきた頃のように繁盛した。かつての白人常連客も、アキが理髪店を再開したことを知り、駆けつけてくれた。言葉は通じない白人のお客だったが、白人は笑顔でアキの理髪店を訪れた。
その当時にアキが使っていたバリカンが、蒲井の家の中に残っていた。再びシアトルで働くことで、與右衛門を失った悲しみが、アキの心から徐々に薄らいでいった。アキのこの頃の生活を思い浮かばせるものとして、1936年10月にシアトル日本人町の古屋商店で布団を買った時の一枚の請求書が残されていた。古屋商店は、古屋政次郎によって1892年に雑貨店として開業され、その後は食料品、家具、和様雑貨、美術品、書籍類、靴等を扱う大商店となり、更には海運や銀行業務まで行う大企業になっていた。
アキが北米日本人会商業会議所経由で日本本土へ「慰問袋」と書かれた寄付金をしていた記事も、1937年10月12日『大北日報』に掲載されていた。これらの新聞に寄付者として掲載された面々は、主に理髪業組合のメンバーだった。北米日本人会商業会議所は、1931年にかつての北米日本人会が日本人商業会議所と統合してできた新しい日本人会の呼称で、1942年まで継続した。1937年は日中戦争が始まった年だ。この「慰問袋」は日本に送られ、戦地にある出征兵士などを慰め、士気を鼓舞するために、中に日用品などを入れて送るために使用された。日本が戦争への道を歩んでいく頃の記事だった。
アキは仕事の合間をぬって、蒲井にいる娘2人に宛てて手紙を何度も送った。1人でシアトルの町中に住むというのは、気丈なアキにもとても寂しいものだった。若い頃、與右衛門と一緒に理髪業をやって、アキは娘2人を仕事の邪魔になると蒲井へ置き去りにしたことを思いだした。そのことはもう取り返しはつかないが、娘2人が日本の学校を卒業したら、シアトルへ呼んで一緒に生活したいと思った。
姉妹のシアトル再渡航
與右衛門の長女は、1916年9月20日にシアトルで生まれた。物心ついた幼い頃に、シアトル日本人町にあった與右衛門の経営する理髪店に連れていってもらい、理髪店の近くでよく遊んだ。しかし、仕事の邪魔になると4歳の時に日本に帰らされ、その後は祖父母のいる蒲井で育った。蒲井にいても、生まれ故郷のシアトルは懐かしかった。地元の小学校を卒業後、島から海を渡った本土にある平生(ひらお)高等女学校へ入学した。蒲井から通学はできなかったので、女学校の近くに下宿した。アキは長女に勉強や洋裁を身に着けさせたいと考え、この女学校へ行かせた。アキは小学校もろくにいかずシアトルへ渡ったが、娘達には勉強や何か技術の習得をして欲しいと思った。アキは、長女には日本で可能な限りの教育を受けさせてやりたいと思った。
当時、この女学校へ行けたのは、本土の一部の人だけで、島の寒村の蒲井からこの女学校へ行ける人はほとんどいなかった。長女は1933年3月に、平生高等女学校実科を卒業した。シアトルにいる母親のアキから手紙で、卒業したらシアトルへ来ないかと誘いがあった。長女はこの手紙を読み、生まれ故郷のシアトルへ行き、母親アキに会うことがとても楽しみだった。
長女は女学校を卒業後、18歳で1935年4月にアキのもとへ渡米した。神戸から三重丸に乗ってシアトルへ向かった。2週間の船旅を経て船がシアトルに着くと、アキが迎えにきてくれた。4年ぶりの再会だった。これまで母親と一緒にゆっくり生活することがなかった長女にとって、やっと母親の愛情を感じることができるシアトルでの生活になった。
1936年7月に、2人でシアトル・リンカーン公園(Seattle Lincoln Park)に行った時の写真が残されている。シアトルで親子水入らずの生活となった。この長女と一緒の生活は、アキにとってとても幸せな時であった。写真のアキは、アメリカ風の軽やかな衣服をまとい、楽しそうにしている。夫の與右衛門が亡くなり寂しさはあったが、アキにとって長女と一緒に生活できることが、とてもうれしかったようだ。
次女は、1918年にシアトルで生まれた。2歳の時、長女と同様に日本へ帰らされた。次女はシアトルのことはほとんど覚えていなかった。次女の幼少時は、蒲井で親のいない寂しい生活だった。
そんな次女も、姉の渡米の数年後にどうしても自分も母親のいるシアトルへ行きたいと思いたった。シアトルを訪れ、アキと姉に会うことができた。姉にシアトルをあちこち案内してもらい、母娘3人の水入らずで食事もした。シアトルの街並みは、自分が生まれた場所なのに、初めて訪れた新鮮な街に思えた。シアトルにしばらく滞在した後、別れを惜しみながら、アキと姉に見送られて日本へ帰っていった。
アキと長女の帰国
1936年6月に、長男の與(あたえ)もシアトルへやってきた。これでアキは、與と長女と3人で暮らすことができた。アキは地道にシアトルで理髪業を続けていたのだが、シアトルの地は、もう安住の地ではなくなっていた。1937年に日中戦争が起こり、政情不安な社会になっていき、多くの人が日米戦争をも噂するようになった。1939年頃には、蒲井の家からも、日本へ帰ってくるようにアキの元へ再三の手紙が来るようになった。
このような状況下で、アキは、約8年に渡って女手ひとつで経営してきた理髪店を閉じ、1939年8月13日に長女と一緒に日本へ帰国した。アキは、よく8年もシアトルで頑張れたと感慨深く感じ、與右衛門が天から見守ってくれたのだと思った。子供達3人がシアトルへ来てくれたことが、一番の心の支えになった。
アキと長女の帰国の写真が残されていた。この頃は日本への帰国者が多くいた。この写真は、大勢の帰国者と一緒に船の近くで撮影されたものだった。中央の白い洋服の女の子の右にアキ、左に長女の姿が写されている。長男の與はこの日、別れを惜しみながらアキと妹の帰国を見送った。そして與は1人シアトルへ残った。
参考文献
『北米年鑑』北米時事社 1936年版。
竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年。
坂口満宏『日本人アメリカ移民史』不二出版、2001年。
* このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙『北米報知』とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。
© 2020 Ikuo Shinmasu