
山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。
(2021年8月 更新)
この執筆者によるストーリー

第23回(後編) シアトル日系人社会のリーダー ・ 伊東忠三郎
2025年2月5日 • 新舛 育雄
第23回(前編)を読む 伊東忠三郎 文献によると伊東忠三郎の略歴は次の通りである。 1871年 11月15日、山口県大島郡沖浦村に生まれる。 1893年 12月にシアトルへ上陸し理髪店を開業、同時にバス、洗濯業も兼業 1896年 日本食料品店を開業。 1900年 美術品店を開業さらに洋食店、和様グロサリー品のホールセンターを始めた。 1900年 11月に富士桂庵を開始し在米日本人の経営の手助けを行った。 1903年 山口県人会創立、山口県人会会長 …

第23回(前編) シアトル日系人社会のリーダー・奥田平次
2025年2月4日 • 新舛 育雄
前回はコミュニティチェストとポトラッチ祭についてお伝えしたが、今回はシアトル日系人社会のリーダーとして活躍した奥田平次と伊東忠三郎の功績についてお伝えしたい。 奥田平次 文献によると奥田平次の略歴は次の通りである。 1867年 1月2日に奈良県磯城郡安倍村に生まれる。 1890年 在東京の際田村某の女性と結婚 1899年に亡くなった。 1893年 8月に渡米 1900年 パーキンス女史と結婚 シアトルで運送業開始 1901年 日本人会組織時…

第22回 ポトラッチ祭への参加活動
2024年7月31日 • 新舛 育雄
前回は日本人会のコミュニティチェストへの貢献についてお伝えしたが、今回はシアトルで毎年7月に7日間行われていたポトラッチ祭についての記事1を見ていきたい。 ポトラッチ祭への参加活動 ポトラッチ祭とは、先住民族である北西部沿岸インディアン部族の文化的な祭りで、毎年多くの米国人客で賑わう、シアトル恒例のお祭りである。日本人コミュニティに住む人々は日本の歴史と日米親善をアピールするため、工夫を凝らした山車(だし)を作って祭りに参加し、市内をパレードするなどして米国人に大好評…

第21回 シアトル市の共同募金への貢献
2024年7月24日 • 新舛 育雄
前回は日系人社会を支えた日本人会について取り上げたが、今回はシアトル市が主催する共同募金活動、コミュニティチェストへの日系コミュニティの貢献についてお伝えしたい。 コミュニティチェストとは 前回お伝えしたように、北米日本人会は1918年に領事館から証明保障料の分配廃止後の新たな財源確保として、コミュニティチェストというシアトル市内居住者の共同募金活動に参加した。このコミュニティチェストは、一定額を地域に還元し、その多くは小児園、託児所、少女保護、失業者の救済のために使用…

第20回(後編) 日系人社会を支えた日本人会
2024年5月21日 • 新舛 育雄
前編を読む >> 証明保証料の分配の廃止 日本人会の財源は会員の会費と領事館から委託を受けた証明保証料の分配金だった。このためシアトル領事館内のシアトルの北米日本人会を始め、各地方の日本人会を北米連絡日本人会が1913年に設立され、この分配金を各日本人会へ分配した。しかしこの各日本人会への分配金は1918年に廃止され、領事館からの保証料は北米連絡日会が財源確保のために取り込んだ。北米連絡日会は領事館にこれまで50%だった手数料を全額下附してくれることを要求した。 …

第20回(前編) 日系人社会を支えた日本人会
2024年5月20日 • 新舛 育雄
前回は県人会についてお伝えしたが、今回は日系人社会を支えた日本人会についてお伝えしたい。『北米時事』では毎日のように日本人会についての記事が掲載されていた。それだけ日本人会はシアトル日系人社会にとって繋がりの深い重要な機関だった。その記事1の一部を今回紹介したい。 日本人会の歴史 日本人会が創立40周年を迎えた時、当時の日本人会会長の三原源治氏が日本人会創立からの歴史を次のように述べた。 「日商創立40周年を迎えて 会長、三原源治」(1939年5月24日号) …

第19回(後編) 県人会による日本人の結束
2024年3月20日 • 新舛 育雄
第19回(前編)を読む >> 山口県出身者の活躍と訃報 ① 岡村正一・大島郡安下庄(あげのしょう)村出身 「日商社会部長、岡村正一氏死亡」(1939年6月28日号1) 「グランドユニオン洗濯株式会社社長、岡村正一氏は脳溢血を起してから静養につとめ励んで常勤に復し活動中であったが三月頃から再び健康を害し自宅にて療養中の處、今朝12時45分自宅にて死亡した。今回が三回目の脳溢血で、享年63歳。同氏は山口県大島郡安下庄村出身、16歳にて渡米し、数年ならずしてイーグ…

第19回(前編) 県人会による日本人の結束
2024年3月19日 • 新舛 育雄
前回は二世男子の柔道の隆盛についてお伝えしたが、今回はシアトル在留日本人が結束をした県人会についてお伝えしたい。 シアトル日系人社会では同県出身者が結束を計るために、1901年に広島県人会を発足したのを皮切りに、1902年徳島県人会、1903年山口県人会、1904年愛媛県人会、1905年神奈川県人会と誕生していき、以後日本全国に渡る各県で次々と県人会が出来上がっていった。今回は筆者の祖父、與右衛門(よえもん)の出身県である山口県に関する記事を中心にお伝えしたい。 県人会…

第18回(後編) 二世男子の柔道の隆盛
2024年1月24日 • 新舛 育雄
第18回(前編)を読む >> ジム・ヨシダの柔道 『ジム・吉田の二つの祖国』の中にジム・ヨシダが柔道に励んでいたことが掲載されている。ジム・ヨシダはこの頃、フットボールに夢中で、父、龍之輔からの強いめで、始めはいやいや柔道をやっていたが、そのうち柔道が面白くなったことが書かれていた。 丁度その頃と思われる1938年2月7日の記事1には、父の吉田龍之輔が天徳会の評議員をしていた。1938年2月には初段であったジム・ヨシダだが、翌年2月には2段に昇段していた。ジム・ヨシ…

第18回(前編) 二世男子の柔道の隆盛
2024年1月23日 • 新舛 育雄
前回は二世女子日本見学団についてお伝えしたが、今回はシアトルで多くの二世男子が取り組んだ1938、39年頃の柔道の隆盛についてお伝えしたい。 柔道道場の設立 文献によると、1908年2月に一般青年の柔道修業のために、シアトル市に「シアトル道場」が設立された。開設当時の会員数は20名程度に過ぎなかったが、1928年頃には二世男子の柔道修得者が増加し、成年者85名、幼年者125名の、計256名となった。道場はこの頃ジャクソン街824番にあった。 1932年には講道館長の嘉…
ディスカバー・ニッケイからのお知らせ


ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。