収容所、防疫研究所、揺れる思い
太平洋戦争がはじまり、アメリカの日本人・日系人が「敵性外国人」とみなされ、収容所に隔離されたことはよく知られているが、オーストラリアでも同様の収容所があったことは一般にはあまり知られていない。
オーストラリアは第二次大戦で連合国に属し日本とは敵対関係にあり、日本軍はオーストラリア本土のダーウィンを空爆するなど攻撃をしかけた。当時、以前本コラムでも触れたように、明治時代から和歌山県を中心にオーストラリアへ真珠貝(白蝶貝)を採取するために渡った日本人や同地でサトウキビ産業に従事する日本人がいた。
彼らをはじめ当時の在豪日本人は、戦争がはじまると収容所におくられた。こうした史実を背景にして、オーストラリアで出版された小説『After Darkness』(2014年刊)の、日本語版『暗闇の後で 豪州ラブデー収容所の日本人医師』(花伝社)が今年8月に出版された。アメリカでの同様のフィクション、ノンフィクションは数あるが、オーストラリアを主たる舞台にした小説は珍しい。
作者のクリスティン・パイパー(Christine Piper)は、オーストラリアの作家、ジャーナリストで、1979年に日本人の母親とオーストラリア人の父親のもと韓国で生まれ、1歳でオーストラリアに移住した。
小説家としてのデビュー作となる本作で、オーストラリアで新人作家に与えられるヴォーゲル文学賞を受賞。また、オーストラリアで最も著名な文学賞であるマイルズ・フランクリン賞の最終選考作品にも選出されるという新進気鋭の作家である。また、ジャーナリストとしても日本の戦中の問題に絡んだノンフィクション・エッセイ『Unearthing the Past』を出版、高い評価を得ている。
日本とオーストラリアにルーツをもち、ジャーナリスティックな視点もあるだけに、「暗闇の後で」も、日・豪の戦時中の史実をベースに、時代の荒波のなかを生き抜く人間模様を、日本人医師のナイーブな視点から描いている。
3都を時を超え行き来する
物語は、開戦後の1942年、オーストラリアのラブデー収容所からはじまる。これは実際にオーストラリアが敵性外国人を隔離するために設置した、3ヵ所の収容所のうちの一つで、オーストラリア南部に位置する。
主人公である日本人医師、茨木智和はそれまで同じオーストラリア北西部のブルームの日本人コミュニティーのなかで医師をしていたが、戦争がはじまりラブデー収容所に送られることになる。場面は、そこからはじまる。
収容所は銃を構えた兵士によって監視され、限られた自由しかない。所内には、同じ在豪の日本人がいるが、なかには少数だがオーストラリアで生れるなど、日本人以外の血を引く、“日系人”もいた。彼らと日本人はそりが合わず、収容所内でトラブルが発生し、ひとりの若い日系の若者は瀕死の重傷を負い、精神も病んでしまう。
茨木は、当初、収容所内にいる日本人のリーダー格の彼らのいうことを信じ、日系の若者に同調しなかったが、次第に彼らに同情し理解するようになる。
茨木の収容所での医師としての生活の場面から、次は一転して、時代を遡り1934(昭和9)年の東京に移る。医師になるため東京帝国大学病院で研修をはじめていた茨木は、患者を前に医師の無力さを痛感し、医師になる自信をなくしていた。そんなとき、陸軍軍医学校の医学研究部門から研究員として働かないかと誘いを受ける。
このあと、物語は、ラブデー収容所に一気に戻り、つづいて少し時を戻し1938年のブルームに移る。日本人街や日本人コミュニティーの様子が描かれ、日本人病院での茨木の活動がはじまるが、ここで茨木は診療を補助してくれる、現地の修道院にいる修道女で看護師のベルニスに出会う。
このように、物語は、東京、ラブデー収容所、ブルームの日本人病院の3ヵ所を、時代を前後しながら進み、その過程でパズルのように茨木医師の、東京からオーストラリアまでの足跡が明らかになる。
茨木は、新宿にある陸軍軍医学校に創設された防疫研究所の研究員となるが、そこでの研究とは、関東軍防疫給水部が関与する生物兵器開発の一環だった。すでに、望む相手と結婚をし家庭をもうけていたが、研究に追われ悩むなかで、夫婦間には溝ができやがて決定的な問題がおきて、妻は去って行く。
一方、研究ではいわゆる人体実験も行われ、茨木もそれに手を貸すようになるのだが、とうとう耐えきれなるなり、研究員を解雇される。妻を失い職を失い、途方に暮れた茨木は、オーストラリアの日本人街での医師の職があることを知り、逃避するようにブルームの町へ赴く。
やがて開戦となり収容されるが、やがて、日本と連合国との間で、互いの抑留者や捕虜を交換する“交換船”に乗ることができ茨木は日本へ帰る。そして、妻との再会を果たし、理解し合うのだが……。そして時は進み、1989年の茨木の回想と、かつて自分が関わった忌々しい事実へのある種の決意で終わる。
ちりばめられた事実
物語は、主人公、茨木医師がかかわる出来事を通して、細菌兵器や人体実験、収容所内での“人種”対立、収容者の射殺など、戦時の負の側面を浮き彫りにするが、その出来事は時にスリリング、謎めいて展開する。さらに、ロマンスも織り交ざって、全体的にグレーな物語に色を添えている。
こうしたストーリー展開とは別に、興味を引くのが、もとになっている史実だ。たとえば、収容された日本人・日系人のなかには、当時真珠貝採取のためにオーストラリアにいた日本人ダイバーなどが多くいたほか、フランスのニューカレドニアにいた日本人も強制移送されてきたこと、さらに当時日本の統治下の台湾人も収容されたことがわかる。
このほか、戦時中のアメリカの日系人とは異なるような日系人の立場。日米間で行われた交換船と同様にオーストラリアもまた日本と、東アフリカのロレンソ・マルケス港で捕虜や抑留者を交換したことなどだ。
訳者の北條正司氏は、化学を専門とする理学博士だが、父親が戦前から本書の舞台のひとつであるブルームに渡り真珠貝採取のダイバーとして働いていて、開戦後は強制収容された経験をもつことから、本書のテーマに関わる資料を蒐集していた。
これを知った著者が、北條氏を訪ね情報を得たことが縁で、著作を送られた北條氏は、ある時「本書を日本語にして世に送り出すのは自分しかいないとの妄想に取り憑かれ、翻訳出版を思い至った」という。
© 2023 Ryusuke Kawai