明治時代からオーストラリアに白蝶貝(通称、真珠貝)を採りに行っていた日本人がいたことは知っていたが、三重県から紀伊半島の海岸線を旅するなかで、ふとしたことから、祖父がそのひとりだったという人から話を聞くことができた。
三重県伊勢市にかつて強力造船所という造船所があった。1956年夏、ここで一隻の遠洋マグロ漁船が東京水産大学の練習船に改造された。1954年3月1日太平洋のビキニ環礁近くでアメリカの水爆実験に遭遇し、“死の灰”(放射性物質を含む降下物)を浴びた第五福龍丸である。
第五福龍丸の歴史を追う取材で、旧強力造船所の三代目の社長、強力修氏から話を聞く機会があり、以来伊勢に行くと強力氏を訪ね昔話などをきかせてもらっていた。今回も強力氏を訪ね、海や船にまつわる話をしていると、かつて強力造船所がオーストラリアへ真珠貝を採りにいった船を頼まれて造ったことがあり、その発注先の孫にあたる人が志摩市で、真珠を取り扱う店を経営しているという。
「興味があるなら紹介してあげるよ」といわれ、さっそく翌日、海に突き出た大王崎の近くで真珠店「あらふら丸商会」を経営する中村滋さんを訪ねた。
オーストラリアで真珠貝を採ったのは、オーストラリアとパプアニューギニアの間のアラフラ海で店内には、かつて祖父の中村藤四郎さんが貝の採取につかった船や現地の様子をとらえた写真が何点も飾ってあった。
真珠貝をくりぬいてつくられる貝ボタンは、独特の光沢と質感で高価な商品として取り扱われていたため、日本からも明治初期から採取に出かけるものがいた。滋さんによると、藤四郎さんは先に出かけていた郷里の知人に誘われたようで、現地では採取船の船長として働いた。
しかし、現地の人間に雇われる立場で収入はそれほどでもなかったため、自分で船を出そうと、昭和6、7年ごろ強力造船所に発注して船を持ち自ら貝を採る事業に乗り出した。「祖父は船長でしたが、潜って貝を採るダイバーの仕事は世界一危険な職業といわれたそうです」と、滋さんは言う。
藤四郎さんのほか、志摩半島など三重県から真珠貝を採りに行った人はほかにもいるが、この点では、和歌山県の串本地方がもっとも有名で、多くの人間がオーストラリアに向かったという。地元では郷土の歴史として語り継がれ、町内にはこうした歴史を資料とともに展示してあると聞いた。
志摩半島をめぐったあとは、紀伊半島の海岸線をめぐることにしていたし、なにより串本は第五福龍丸が建造された地でもあり、立ち寄ることにした。
本州最南端の“展示館”
志摩半島をあとにし南西に下り、尾鷲市を最後に三重県から和歌山県に入り南下していくと、紀伊半島の突端に位置する串本町に着く。串本町古座(旧古座町)は、第五福龍丸が建造された地だ。かつて何度か取材で訪れた時には、地元でこの歴史を詳しく調査し、平和運動に携わってきた仲江孝丸町議にお世話になった。
今回も仲本氏に連絡し、串本を訪れた目的の一つとして、地元での真珠貝採りの歴史を調べたいと伝えると、さっそく資料が展示してある所へと案内してくれた。そこは海に突き出している本州最南端といわれる潮岬(しおのみさき)の一画にぽつんと建つ「本州最南端 潮風の休憩所1」という小さな平屋だった。
文字通り観光で訪れる人の休憩所なのだが、このなかに、かつて真珠貝を求めてオーストラリアに渡った串本町の人々たちの歴史についての解説があり、当時の写真や実際に貝を採るときに使われた。潜水具などが展示されていた。
解説と資料からまとめると、その歴史の概要は次のようなものだった。
和歌山県は広島県などと同様多くの移民を輩出した“移民県”として知られているが、串本地方では、明治時代中期から昭和初期にかけて、オートストラリアやハワイ、南北アメリカ、南洋方面など広範囲にわたって仕事をもとめて人々が出かけて行った。
なかでもオーストラリアがその始まりで、明治17(1884)年に、30人がオーストラリアの北部、クインズランド州のトレス海峡(南北160キロ、東西220キロ)で盛んに行われていた真珠貝採取の労働者として、募集に応じて行った。
トレス海峡では、イギリス人が最初に真珠貝を採り、高級な貝ボタンや貝細工の材料としてイギリスに輸出し多大な利益を得たことから採貝が盛んになった。この採貝の際に拠点となったのが木曜島という3.24km2の小さな島だった。
この海域に真珠貝採取のためやって来た最初の日本人は、島根県出身の野波小次郎で、明治11年のことだった。クインズランド州は、明治25年ごろから契約によらない自由移民を受け入れた。その後日本人は増え続け、明治30年ごろには木曜島の日本人は1000人を超え、一時は人口の60%を占めた。島には日本人街も形成された。
この事業に従事した日本人は延べ7000人で、そのうち和歌山県出身者が8割を占めたといわれる。日本人は最初は雇われるだけだったが、明治20年代には日本人も船を所有することができた。
その中で、串本町に近い旧東牟婁郡高池村出身の佐藤虎次郎は、町の青年たちを率いて木曜島に渡り、和歌山県紀南地方の若者など2000人ものダイバーを率いて真珠貝採取事業を展開、「木曜島のキング」とも呼ばれた。しかし、明治34(1901)年オーストラリア連邦政府による移民制限法によって、帰化しなければ船を所有することができず、また病気など特殊な場合を除いて陸に上がることが許されず、海上での生活を余儀なくされた。
大正、昭和の時代になっても採貝事業はつづき、船も大型化されて活動範囲も広がった。しかしその一方で、潜水病や遭難などの事故は絶えることなく、木曜島だけで約700人の日本人が命を落とした。このうち162人が串本町出身者だった。
1941年、太平洋戦争が勃発すると、木曜島の日本人はオーストラリア政府により抑留され、本土のニューサウス・ウェールズ州の収容所などに収容されることになった。これによって木曜島を中心としたトレス海峡での真珠貝採取事業は実質的に終了した。
開戦直後に攻撃されたダイバー船
以上が、日本人による真珠貝採取の概要だが、戦争との関係で加えておきたいことがある。戦争がはじまるとやがて、日本では漁船も軍事のために徴用された。和歌山県で戦時中に徴用された漁船など民間の小型船についてまとめた「常民の戦争と海」(中村隆一郎著、東方出版)という本がある。戦時中の漁船の徴用についてまとめた資料は少ないなかで、当事者への取材を含めて整理された貴重な記録である。この中に、徴用された真珠貝採取船について驚くべき事実が明らかにされている。
それは、日米開戦の2ヵ月前に、オーストラリア近海で本来なら真珠貝採取をする日本のダイバー船が艤装潜水をしながら敵の情報収集をさせられていたという事実だ。そして1941年12月8日の真珠湾攻撃のその日、これらの日本のダイバー船がニューギニア近くの海上で敵機からの激しい攻撃に遭い炎上、任務についていた串本の漁民らが死んでいったという事実である。
日本が開戦の狼煙を上げたその直後に反撃に遭ったのはダイバー船だったのだ。
話を真珠貝採取のためオーストラリアに渡った日本人に戻すと、開戦により収容された日本人は戦後日本に戻るなどしたが、長期にわたるオーストラリアでの生活で、なかには現地の女性と結婚し家族ができ、現地にとどまる人もいた。また、すでに戦前に現地に根をおろした人もいた。それから今日までの間、オーストラリアにおける日系の歴史も少しずつ積み重なっていったのだろう。
注釈:
1.「潮風の休憩所」や串本町図書館には、オーストラリアでの真珠貝採取に関連する資料や書籍がある。
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