太平洋戦争の勃発とともに、アメリカの日本人・日系人が強制的に隔離され、収容所に入れられたことはよく知られている。カナダでも同様の政策がとられたことも、アメリカでの収容ほどではないが、知られているし、また言われれば想像のつくところだ。
しかし、オーストラリアでも、同様の収容所が設けられ、日系人(日本人も含めて)が収容されていたという事実についてはほとんど知られていないのではないか。
このコラムでは、過去数回にわたって、戦時中のオーストラリアを主な舞台とした、日本人が主人公の小説『暗闇の後で』をとりあげ、日系オーストラリア人の著者へのインタビューなどを紹介してきた。この小説の背景には、日系人の収容所が登場するが、その実態はどのようなものだったのか、2002年に出版された『オーストラリア日系人強制収容の記録』(高文研)をもとにたどってみたい。
同書の奥付にある著者プロフィールによれば、著者の永田由利子氏は、「1949年神奈川県川崎市生まれ、1971年明治学院大学英文科卒、73年、米国インディアナ州立大学応用言語学修士課程留学、75年、同大学修士号取得。80年、オーストラリアに永住。93年、オーストラリア・アデレード大学歴史博士(文学)の学位を取得、オーストラリア・クイーンズランド大学言語比較文化学科シニア・レクチャラー」とある。
本書は、もともと1996年に「Unwanted Aliens—Japanese Interment in Australian During World War 2 」(University of Queensland Press)としてオーストラリアで出版された本の日本語版である。「オーストラリアにおける日本人の強制収容の全容を明らかにした初めての研究」と評価される、貴重な記録ともいえる。
著者によれば、オーストラリアにおける日本人抑留に関する日本側の公文書は少なく、その事実のほとんどをオーストラリア国立公文書館と戦争記念館の記録に頼ったという。これに加え、1985年からかつて収容されていた側と監督していた側の双方から行った聞き取り調査をもとにしている。
抑留者に対しては、オーストラリア国内をはじめ日本、そして台湾で取材し、合計70人から話を聞いた。一方、当時の収容所の看守や衛兵、合計17人にインタビューを行っている。
インタビューを受けた元抑留者やその家族は、大半が二世で、その反応はさまざまだったという。語りたくない人もいた。著者は言う。
「自分たちが日本人の血を引いているという理由だけで『罪人』扱いされたことが深い心の傷になっているのである。オーストラリア政府による強制収容は当時すでにオーストラリア人としてアイデンティティーをもち、日本とは何の関係もないと思って育った二世にとって、『市民権』の剥奪を意味したのである」。
この点は、収容体験のあるアメリカの日系人と同じだろう。ただ、アメリカと違って日系は少数であり、アメリカに比べてコミュニティーなどを通して、自分が「日系」であることを意識することが少なかった分、「日系」であることを突き付けられた重みは大きかっただろう。
知られざる戦争、収容
本書の副題には「知られざる太平洋戦争」とある。日本で太平洋戦争といえば、一般的に真珠湾攻撃にはじまったアメリカとの戦争ばかりが意識される。しかし、多くのアジア諸国を巻き込み、甚大な被害を与えたことについては、語られることは少なく、対オーストラリアについては、戦った事実についてさえ知らない日本人も多いのではないか。
「知られざる太平洋戦争」とは、日本とオーストラリアとの戦い、そして日系への強制収容という戦争の側面を示唆している。
自国あるいは大国中心の「戦争の歴史」については、こうした反省から近年『太平洋戦争秘史 周辺国・植民地から見た「日本の戦争」』(山崎雅弘著、朝日新書)が出版された。対オーストラリアについてもここに詳しい。1941年12月8日、日本が英連邦諸国に宣戦布告すると、オーストラリアも日本に宣戦布告、英連邦の構成部隊としてマレー半島など前線で日本軍と戦うが、翌1942年2月、オーストラリアの北部の都市ダーウィンが、日本軍により最初の空襲被害に遭い、243人が死亡した。
この後も空襲など攻撃を受け、さらに43年5月には非武装の病院船が日本の潜水艦に撃沈され、268人が死亡した。オーストラリアでは日本に対する怒りが増幅していった。当然の怒り矛先は、国内の日系人に対して向けられた。それは、戦争が終わってからも続き、意識するとしないとにかかわらず日本人の血を引くものは「日系」であることの影を引きずっていくことになる。
複雑な“日系”の収容
では、オーストラリアにいた、日系人とはどのような人たちなのか、また、その歴史はどのようなものか。『オーストラリア日系人強制収容の記録』では、オーストラリアでの日本人移民の変遷をとらえ、オーストラリアが日系移民に対してどういう対応をとったかを考察する。
明治時代初期から真珠貝採取のためにやってきた者を中心に、さとうきび農場での契約労働者として、また、貿易や現地での商売を目的に来た者もいる。出稼ぎ的に来たものがほとんどでも、他の諸国への移民と同様、現地で暮らす中で結婚し、家庭を持ち、やがて子供が生れると徐々に根をおろすようになる。
しかし、戦争によって事態は一変する。在豪のイタリア人やドイツ人も収容されたが、それは拘留が必要とされたものに限ってだったのに対して、日本人は全員収容されることになった。その数は合計4301人で、このうちほかの連合国政府との取り決めによって、ニューカレドニアなど周辺の他地域から移送された収容者も3160人いた。
このなかには台湾人も含まれていた。また、収容された朝鮮人もいた。日本人は、タツラ、ヘイ、ラブデーの3ヵ所に分かれて収容された。
日系のなかにも、両親は日本人だが、オーストラリアで生まれた2世や日本人とオーストラリア人を両親を持つものなど、エスニシティ—(民族性)はさまざまで、収容所内では、オーストラリア生まれの二世と日本人との間や、台湾人と日本人との間で対立が起きたり、台湾人が差別されることがあった。
戦後、収容されていたものは釈放されるが、日本国籍を有するものは日本へ送還されることになる。この結果、家族が離れ離れになるケースもあった。オーストラリア以外から家族と離れて収容されたもののなかには、家族のいる国ではなく、日本に送還されるものもいた。
こうした日系人の強制収容の実態を、公的な記録をベースに抑留者の証言によって明らかにすると同時に、オーストラリアで移民であり日系であることの意味を考えさせる本書は、まさに知られざる太平洋戦争の一面をとらえた読み応えのあるノンフィクションでもある。
なお、太平洋戦争をめぐって日本とオーストラリアとの関係を探る本として、永田氏も執筆者として名を連ねる『日本とオーストラリアの太平洋戦争—記憶の国境線を問う』(鎌田真弓編、御茶の水書房、2012年刊)がある。
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